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人間が生きることを肯定したい・5「リズム」
ニュース番組で、
8歳の男の子が両親にロープで縛られ、
ベランダにまる2日置き去りにされ死亡するという事件を見た。
この類の事件には、どうしようもなく心が騒ぐ。
「いやだよ、いやだ・・・」と頭をかかえ、
世の中のすべてから目をそむけたくなる。
私にとってこの世で最も忌むべきもの、
それは親による子供の虐待だ。
幼い子供にとって、
親は最も愛されたい相手、最も愛している相手、
世界観の全てだ。
産まれて初めて愛する相手だ。
産まれ落ちた瞬間から、子供は親を愛している。
その相手から、憎まれ、疎まれ、暴力を受ければ、
人の心の中は、いったいどうなってしまうのだろう。
直接暴力をふるわなくとも、
親の無関心、両親の不仲、過剰干渉など、
様々な状況が、子供への心の虐待になり得る。
傷つけられ尽くした魂の主は、
その先、体が成長したあと、
周りにどんな影響を与えていくのだろう。
世界とは。
ここにひとつのイメージを提示する。
世界とは、というひとつの仮定。
世界とは、大小さまざまな、無数の「リズム」で成り立っている。
生きるという、調和的な「リズム」だ。
宇宙の法則は最も大きな「リズム」であり、
個々の命は最も小さな「リズム」である。
食物連鎖のピラミッドの調和も「リズム」であるし、
雨が降り、山を潤し、川の流れとなって、また空へ帰るのも、一定の「リズム」だ。
存在するものは、すべからくなんらかのエネルギーを発していて、その力の張り合いで、世界は均衡を保っている。
流れ、移り変わり、絶えず変化を繰り返しながら。
宇宙には無数の星々が存在し、その相互間のバランスが少し崩れただけでも、宇宙は灰塵に帰すという。
それと同じく、自分が生きて、元気に活動していることの不思議を、考えてみたことはないだろうか。
心臓が規則正しく血を全身にめぐらせ、
肺は血を浄化し、
細胞は分裂し、
脳はすべてを統括する。
その体内バランスが少し崩れただけで、私たちは病気になる。
花が美しく咲くための体内プログラム、
魚が水を泳ぐための体内プログラム、
鳥が羽ばたき空を駆けるための体内プログラム、
それら生命活動の完璧な調和とバランスは、
人間の英知を結集させても到底創りえない。
それなのに、私たちは当然のように、産み、育て、生きている。
そのことに、感動や不思議を覚えたことはないだろうか。
そして、私たちひとりひとりの生命の「リズム」は、
この世界の大きな「リズム」と共鳴し、
さらに、宇宙全体の「リズム」とも共鳴する。
自分は、自分以外のすべてのものと、常につながっている。
私たちは、宇宙と同じ「リズム」で生かされている。
人間は様々な「神」の概念を持つ。
が、宗教の説くいわゆる「人格神」、
それは、人間が創造した「神」であろう。
だからそれは真理ではない、と言うのではない。
人は「神」という手段で、世界の真理を追究してきた。
それには大きな価値がある。
しかし私は考える。
この宇宙の「リズム」、
(それは「法則」と呼び変えてもいいし、
「エネルギーの変換の流れ」と呼んでもいいし、
ある意味では「愛」と呼んでもいい)
それこそが「神」そのものなのではないかと。
この世界の調和とバランス、それにより、生命活動をつかさどるもの。
だから「神」に実体はない。
もちろん人格も、意思もない。
(それゆえ、宗教が具現化した「神」を敬い、
そこから真理を追究するのは素晴らしいこととしても、
唯一神を盲信し、他の人間を傷つけたり、
教えに反する考えを弾圧するのは、本末転倒であると思う。)
目には見えない「リズム」、
それは世界全体を流れ、
また人間ひとりひとり、生命ひとつひとつの中に流れている。
しかし、それを感じられるかどうかは、
その人の心次第だ。
古来から多くの修行者、賢人、聖人と呼ばれる人々が求めたもの、
それは「リズム」を感じられる心身ではなかったか。
しかし、人間の不自然な行動から発生する波動、
傷ついた心たちの発する思念の波動は、
「神」という「リズム」を感じられないばかりか、
それをを乱す。
なにも、森林伐採や環境破壊などの直接的なことだけではない。
虐待する親の心のゆがみ、
虐待された子供の心のゆがみ、
呪い合う言葉の響き、
悪意ある言葉の響き、
恨み、妬みといった思念、
物質的な私利私欲に走る心、
それら人間どうし傷つけ合う負の波動は、
目には見えない、体には感じないが、確かに存在していて、
世界の「リズム」を乱す。
負の波動はさらに負の波動を生み、
どんどん広がっていく。
人の心はすさみ、
世界を美しいと感じられなくなり、
生きることは喜びでなくなる。
乱れた「リズム」は、なんとなく人の心に不安を落とす。
現代生きる人々は、皆、心に様々な不安をかかえて生きてはいまいか。
その原因は多岐にわたるであろう。
「目に見える」不安要素は世間にあふれる。
それら社会現象の原因はなんなのか。
人々はそれぞれの考えで、それぞれの専門において、それぞれに分析する。
学校が悪いか?家庭の問題か?政治のせいか?経済のせいか?ウィルスのせいか?
だが、そのような狭い世界だけでの分析は、責任のなすりあいにしか思えない。
堂堂巡りだ。
私は思うのだ。
「おおもとが狂い始めているのではないか」と。
おおもと、とは世界の「リズム」、自然の「リズム」だ。
悪い物を食べたり、暑すぎたり寒すぎたりすると、体の「リズム」が狂うように、悪い思念、悪い言葉、悪い行為は心の「リズム」を狂わす。
人間の心の「リズム」が狂えば狂うほど、
それと共鳴している世界の「リズム」も狂う。
狂った世界の「リズム」は、再び人間の心の「リズム」を狂わす。
悪循環としか言いようがない。
ある人が言った。
「この先子供を産んでも、その子供にとって生きやすい世の中になっていくとは思えない」
それは絶望である。諦めである。
そしてこのまま行けば、この発言は、間違えではなくなってしまう。
でも私は、絶望したくないのだ。諦めたくない。
同じように、他人にも、絶望してほしくない。諦めてほしくない。
なぜなら、まだ世界は美しいから。
まだ、人は優しいから。
太古の森に漂うひんやりした清浄さ、
晴れた日の貫けるように青い空、
雨上がりにかかる虹、
夕暮れの風の暖かさ、
遠くで聞こえる虫の声、
山々に薄くかかる雲、
雲の切れ間からさす日の光、
草原に寝転んで受ける太陽、
とうとうと続く川の流れ、
澄んだ空にままたく無数の星、
よせてはかえす海の波間、
きらきらしながら湖に沈む夕陽、
潤った土から顔を出す木の芽の健気さ、
雑踏からふと見上げる細い月、
子を産み落とす必死な母の姿、
乳を求めて泣く赤ん坊の生命力、
すべて、すべて、すべて、美しい。
世界はまだ美しい。
生まれてくる価値のあるほどに。
そして、その美しさそのものが、生命の「リズム」なのだ。
けれど、人は、その美しさを感じる心をなくしている。
目に見えないものを感じたり、信じたりする心をなくしている。
感じないから、簡単にそれを壊そうとする。
不安にかられても、何故自分が不安なのかわからない。
目に見えるもの、科学で証明されるものだけを、
「真実」と考えるほうが、今の常識と言えるだろう。
科学により発展してきた物質世界は、目に見えない世界を覆い隠した。
どちらも大切なのに、皆、どちらか一方しか見ない。
私は、せっかく人間に生まれた。
思考して行動できるものとして生まれた。
冒頭の児童虐待のニュースを聞いたとき、
私がとっさに望むことは何か。
それは、その子が死ぬ前に、
その家に駆けていってロープを解き、
毛布で包んで抱きしめて、温かい食事を与え、
ゆっくり寝かすことだ。
もっと言えば、両親を問いただし、
何故その子を虐待しなければならなかったのか、
その原因を探り、親子の関係を正常化する。
しかし、それはもちろん不可能だ。
ただの理想論で、きれいごとだ。
他人を救おうとするなんて、おこがましい。
私ひとりの力は微力で、
周りにいる人たちすら、癒す力もない。
しかし私は、せっかく人間に生まれた。
思考して、行動できる。
私は、文章を書ける。
私ひとりの力は微力でも、
私の体はひとつしかなくても、
私の書いた文章は、
紙、インターネットなどの媒体をとおして、
世界へ広がってゆく可能性を持つ。
たくさんの人に語りかけることができる。
だから、
書くだけではいけない。
書いたものは人に読んでもらわなくてはいけない。
読んでもらうのも、周りの知人だけではいけない。
私も知らない、遠い誰かが、私の文章を読んでくれること。
直接関わりなんてない、誰か。
一人でも多くの、誰か。
私の願いは、
私の「書くもの」を通じて、
1人でも多くの人に「リズム」を感じてもらうこと。
ちらっと思い出してくれるだけでいい。
私の「書くもの」を通じて、
少しでも幸せなさざなみが、その人の心におこってくれたら。
生まれてきてよかったんだと、
生きていくのは「いいこと」だと、
一瞬でもそう感じてくれたら。
そして、それを感じてくれたのが「傷ついた魂」の持ち主であったら、
私はそれだけで、なにものにも変え難い、生きる喜びを得るだろう。
そういう魂のある文章を書くために、
私はできるだけたくさんの地を訪れ、
できるだけたくさんの人と出会い、
できるだけたくさんの生命に触れたい。
何故なら私もまた、
「リズム」を感じられなくなっている人間の一人だから。
自分の体が、心が、感じられないものを、
どうして人に伝えられよう。
自然の中にどっぷりつかって暮らさなくともよいのだ。
それが理想なのかもしれないが、
いろんなハードル、愛着、しがらみがあり、
それは叶わないかもしれない。
しかし、それでもよい。
一時でいいのだ。
体に、心に、ふと「リズム」を感ずる瞬間を求める。
それは、人の優しさに触れた時かもしれないし、
生物のしくみの神秘を知った時かもしれないし、
優れた本や漫画を読んだ時かもしれないし、
旅先で森に足を踏み入れた時かもしれないし、
神社の巨木に背をもたれた時かもしれないし、
海でイルカと自由に泳ぐ時かもしれない。
それは、多ければ多いほどいい。
長ければ長いほどいい。
世界にあまねく偏在する「リズム」を感じたい。
それと同じものが、自分の中にも流れていることを感じたい。
世界にあまねく偏在する「神」を感じたい。
それと同じものが、自分の中にもあることを感じたい。
そしてそれは、
あなたにも、あなたにも、まだ見ぬ誰かにも、
同じように流れることを伝えたい。
「リズム」はこう、言っているはずだ。
「生きよう、生きよう、生きよう」と。
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