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人間が生きることを肯定したい・17「生きる力」

『ねえ宮司さま、この世は、
思ったことが象(かたち)になって現れる世界、
「現象界」だってことだけど、
じゃあここに花が咲いているのはどうして?
ここに木が生えているのはどうして?
あそこに山があるのはどうしてなの?
誰が象(かたち)に現したの?』

『ははは。
いいところに気がついたな、美輪子。
”誰”だと思う?
ここにきれいな花があればいいな
大きな木があればいいな
あそこに山があればいいな
森があればいいな
この地上に川があればいいな
海があればいいな
青い空があればいいな
空を飛ぶ生き物がいればいいな
海の中を泳ぐ生き物がいればいいな
大地を歩く生き物がいればいいな・・・
きっと”誰か”がそう思われたのだ』

美内すずえ「アマテラス・4巻」より
        

この1年間、メルマガを書く中で、
「祈り」や「言葉」という目に見えないものの力を考えたり、
「魂」や「転生」を論じてみたり、
この世界の「リズム」を仮定してみたり、
「リズム」を感じるための人間の「直感」「センサー」を信じてみたり、
「臨死体験」のような精神世界に触れてみたり、
愛した作家たちが口をそろえて予言してくれた、
「意識の変革」「価値観の突然変異」を願ったり、
映画・ガイアシンフォニーに登場する人々の目を通して、
「気づき」とは一体どういったことなのかを知ろうとしたり、
「人である」ことに思いをはせたり、
身近で愛しいものの死に遭遇したり、
「身体感覚」を見直してみたり、
「愛」ということの本質を探ったり、
16回の発信を通じて常に気持ちの奥底にあったのは、
「だから『生きていくっていいことかもな』って思いたい」
ということだった。

しかし、
数々の言葉を紡ぎながら、
おそるおそるその問いに近づこうとする私に、
あっけなくポーンッと「答え」を言い切る人々がいる。
それは「母親」という人々だ。

あるエッセイに、母親である人の言い分が載っていた。
彼女はこんなふうに言う。

『なぜ人を殺してはいけないか?だって?アホか!
そんなのフツーの母親だったらみんな知ってる。
感情論のどこが悪いんや。
なんで人を殺してはアカンかなんちゅう問題に、
感情以外のどんな回答があるっちゅーんや。
ええか、人間は感情が優先や、その次に思考や。
それが逆になっとるから、
自分の気持ちがわからん子供が増えてるんや。
 
子供っていうのは、自分から生まれてくる。
自分の判断で、自分が出てきたいと思うときに、
自分でうんこらしょ、と出てくる。
そして、体内に宿った瞬間から生きようとしはじめる。
赤ちゃんっていうのは、
そらもう必死で生きようとしてる。
本能っていうんかなあ、
その生きようとする生命力はすごいんや。
 
生まれたばかりの赤ちゃんはほうっておいたらどうなる?
死ぬやろ?
人間は3、4歳になるまで、
ほうっておかれたらすぐ死ぬ存在なんや。
2歳くらいまでは、
24時間介護が必要な人間ってわけだ。
つまりな、こうして自分が生きているってことはよ、
誰かがそれをやってくれたっていう証やねん。

母親になって思ったんよ。
よくもまあ、みんな子供を殺さずにやってるなあって。
なんだかんだ言いながら大人になる。
すごいことだよね。奇跡だよ、奇跡。

じゃあなんで赤ちゃんは殺されずに生き延びると思う?
赤ちゃんの持っている生きようとする力が、
大人を感動させんねん。
そりゃもう、生まれてきたってだけですごいんやけど、
その後も成長して生きようとする力に、
大人はぼう然とさせられる。
目から鱗やね、もう、赤ちゃんのパワーは。
それを見せつけられるから、
大人はもう赤ちゃんの奴隷になって育てるんよ。
 
誰でもそうやったんや。
そのことを知っているのは母親だけや。
腹の中で暴れたことまで記憶しているのは母親だけや。
どれくらい生きたがって泣いて叫んでもがいたか、
手のひらに乗る大きさのくせに、
自分で産道をこじあけて出てきたこと、
生まれてから2年間、
ただ生きるためだけに懸命だったこと、
それがどんなに世界を明るくしたかってこと、
なんで人を殺したらアカンのか、
とか言うボケガキには、
全部話してやらなあかん。
そんで、この世の中の誰もがそうやって生まれてきたんだってこと、
わからせたる。』 


ははあ、なるほど・・・と、
おそれいってしまった。
そして思い出した。
友人からもらったもので、
忘れられないメールがある。
引用が長くなるが、同時にどうしても紹介したい。
この人は、母親でなくても、女性でなくても、
同じことを感じていた。


『彩子さんが以前のメールで書かれていた、
命のいとおしさ、については、
僕は姪に教えられました。

僕は高校生のころから、
社会に出たら、人に役に立つ人間になろう、とか
泣いている人、苦しんでいる人のそばにいよう、とか、
そんなことをずっと思っていました。
そしてそういうのは、どういう仕事かなって、考えてきました。
そのころは、いかに行動するかということに、
気持ちが集中していたんですね。
自分の存在意義を、おこないで現そうと。
またおこなうことこそが、優しさであって、
行為の伴わない優しさ、なんていうものはないって、
そう考えていました。

でもね、姪が生まれたら、
なんか、小さな赤ちゃんなんですよね。
壊れそうで、小さな。
ちゃんとミルク飲んだかな、とか、
寒くないかな、とか。
そのときの姪の仕事は、寝て食べること、だったんです。
でももちろん、姪は役立たずでも、無能もの、でもなかった。
そこに存在して、生きている、ということが、
姪の大きな仕事だったんです。

老人になったら、人の厄介になって、
そんな風になるくらいなら、死んだほうがましだ、
なんていう人がいるけど、そうじゃないですよね。
僕は、ボケても、歩けなくなっても、
両親には生きていてほしい。
そこに生きていてくれる、ということが、
大きな仕事なんですよね。

「存在は行為に先行する」

という言葉に出会ったのは
そのあとでした。
でも多分、自分のそういう思考の道筋がなかったら、
この言葉の意味が判らなかったと思います。

「存在は行為に先行する」

そこに生きている命がある、ということは、
本当に嬉しいですよね。』

その昔、自由にものを言うだけでも殺される時代があった。
まだ年端もいかないうちから、
強制的に労働させられる時代があった。
ずっとずっと長いこと、
自分の未来など選べない時代だった。
現代でさえ、死と隣り合わせの現実感が当たり前の国がある。
けれど、人は生きることをあきらめたか。
生きがいなどないと、みな無気力だったか。
いや、だからこそ必死で、
大きくなってからも、
授けられた「生きる力」を振り絞っていたように思う。

今、私がいる世の中は、
豊かになり、
自由になり、
選択肢が増えた。
そして聞く。
「なぜ人を殺してはいけないの?」
簡単に殺される時代に、世界に、生きたことなどないのに。

最近、「千と千尋の神隠し」というアニメが、
空前の大ヒットを記録したのも、私はなんだかうなづける。
あのお話は、何かスリリングな大事件や、
大どんでん返しが起きるわけではないのだ。
ただ、冒頭でだらんとよどんだ眼をした千尋が、
ラストシーンではキッと前を見据えている。
自分の頭で考えて、
自分の手足を使い、
自分の耳で聞き、
自分の心で周りと接するうち、
本来の「生きる力」を取り戻した女の子の話なのだ。
自分の頭で考えて、
自分の手足を使い、
自分の耳で聞き、
自分の心で周りと接する環境が、
現代の日本では、実はとても見つけにくいのではないだろうか。
だから千尋がうらやましく、まぶしい。

さあなんでもやってごらん、
何言っても何しても、簡単に殺したりしないから・・・、
そう鎖を解かれて、かえってウロウロ迷っている。
五感を閉ざしても、とりあえず生きてはいられるので、
自分の感覚を甘やかし、どんどん鈍感になって、
結果、世界の鼓動を感じられなくなって、
「生きる力」を見失っている。
自分の「生きる力」が弱いので、
他者の「生きる力」も感じられず、
その価値と輝かしさを知ることができない。
何より自分が苦しくて、もどかしくて、やり場がなくて、
思い余って他人を傷つけたりする。
そして平然と聞く。
「なぜ人を殺してはいけないの?」

理屈ではない。
理屈でその問いを考える限り、
「殺してはいけない」という答えに、
いくらでも理屈で反論できてしまう。
その問いの答えは、理屈ではない。
その問いの答えは、
誰もがこの世界に産まれたその瞬間、
わんわん泣きながら叫んでいた。

問題なのは、
その問いにうまく言葉で答えられないことではなく、
その問いを発することそのものだった。
だから、ひとつひとつの罪をとりあげ、
個別の心の闇をのぞき込み、
断罪していっても仕方がないように思う。
怒涛のような新しい価値観の波のうねりが、
世の中を変えていってくれなければ。
生来の「生きる力」を当然に発揮できる環境に。
昔に帰るのではない、
このまま突き進むのでもない、
それはどんな世の中なのかと問われれば、
まだはっきりとは答えられないけれど。

でも、私の案外近いところに、
ヒントはあるのかもしれない。
まだ小学生くらいの頃、
テレビアニメで「日本昔話」を見ていた記憶がある。
そのエンディングの歌で、
私はなぜか毎回、子供心に胸がしめつけられていた。

『いいな、いいな、人間っていいな
おいしいごはんにポタポタおふろ
あったかいふとんで眠るんだろな
帰ろ帰ろ、おうちへ帰ろ
でんでんでんぐりがえってバイバイバイ』

私は今でも、
昼間お日様をたくさんすった布団に、
夜、疲れた体をしずめるとき、
ふと涙が出そうになるのだ。
その幸福感に。
そしてその幸福感には、
少しの申し訳無さと、
少しの罪悪感と、
少しの焦燥と、
少しの切なさが、
微妙に入り混じっている。

お母さんのお腹の中で聞いていた鼓動が、
この世界全体で鳴っている。
お母さんが赤ちゃんの「生きる力」を感じて、
それを慈しみ育て、
この世界に在れと願ってくれたように、
地球全体の生命を産み育て、
「そこに在れ」と願ってくれた”誰か”がいる。
そこかしこに散らばる、幾万ものメッセージ。
受け取ろう。
聞いてみよう。
感じよう。
幸せに、心穏やかに、生きていくために。

君はこの世界に産み落とされた「幸せ」そのものなのだと、
私はそう伝えたい。
その命は無条件に祝福されていると、そう伝えたい。
「そこに在れ」と、どんなに願われているか。
私に関わってくれたすべての人に伝えたい。
ひとりでも多くの人に伝えたい。
だから、ひとりでも多くの人と関わりたい。

それが私の仕事だ。
お日さまのにおいのする布団で眠ることが許された、
幸福な私の。


=====DEAR読者のみなさま=====


今、私にとって、最愛と呼んでいいほど身近な人間が、
「生きる力」を見失って苦しんでいます。
そこまで身近な人間の苦しみを目の当たりにして、
私は初めて気付きました。

この世界の不思議、
この世界の面白さ、
この世界の多様さ、
この世界のうねり、
そこには人を生かす力が満ち溢れていると、
私はいつも信じている。
だから、「生きる力」を失っている人がいたら、
それを指し示し、
「見てごらん。あそこまで歩いてごらん。」
と、言えばいいのだと思っていました。
けれども、逆だった。
それを見ようとする気力もないからこそ、
「生きる力」が弱まって行くのだと、
そう気付かされました。
手をひいても、うなだれて首をふる。
私に見えているものが、あの子には見えない。
同じ場所にいるのに。
大変な無力感と焦燥に襲われました。
伝えたいと思うことを本当に伝えることが、
どんなに難しいかを思い知りました。

でも、ふとした瞬間に、
何か妙な確信めいたものが胸をよぎったのです。
「でも大丈夫。だって私、こんなに願っているもん。」と。
あの子がここにいてくれることを、
この世界に存在してくれることを、
私はこんなにも願っている。
こんなに願っている人がそばにいたら、
そうそう簡単に、ダメになったりはしないだろうと。
自分の「生きる力」は、もがいて苦しみながら、
自分で見つけるしか道はないのかもしれないけれど、
私はその強い願いだけは、あの子に伝えようと、
そう思ったのです。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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