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人間が生きることを肯定したい・2「目に見えぬもの『祈り』」

『ヴェーダの科学(発行者注:インドの文化に根付く宇宙観)は、
われわれの一つの行為、一つの言葉、一つの想いは、それがどんなに些細なものであっても波動となって宇宙全体に広がり、
そうしてさまざまな星に”当たって”正確に相手に、あるいは、自分のもとに帰ると表現している』
_____青山圭秀著 幻冬舎文庫「理性のゆらぎ」より


私がまだ高校生のとき、とても愛している親友がいた。
親友はその頃、あるミュージシャンへの届かぬ思いに苦しんでいた。
客観的に見ても、それは「ファン」という域を越しているような想いで、
そのミュージシャンの歌・感性・才能・人生・言葉は、
すでに彼女自身の血であり、肉であったと思う。
手の届かぬ人を、そこまで自分の内に取り込んでしまった彼女は、
端から見ているだけでも、ずいぶん辛そうだった。
思春期の私にとって、彼女の苦しみはそのまま私の苦しみで、
私もずいぶん辛かった。
あるとき、彼女は言った。
「こんなにも愛し、感じ、尊敬しているのに、それがあの人に届くことはない。
私がいくら、伝えられない想いを抱えても、
あの人にとって私は、存在しないも同然なのだ。」
それを聞いたとき、私はごく自然に、当然のように、こう答えていた。


「そんなに強い想いが、どこにも伝わらず消えるわけがないでしょう?
”エネルギー保存の法則”って、習ったじゃない。
言葉にしなきゃ伝わらないなんてこと、あるわけない。
言葉にできないほどの深い想いは、
ちゃんと何らかの形で伝わってるのよ。
あの人が、なにげなく、ふっと幸せな気持ちになったり、
いい歌が浮かんだり、
それがあんたの想いの力だったりするのよ。」


根拠があるわけではなかった。考えて口にしたわけでもなかった。
だが、断じて、その場限りの慰めを言ったつもりはない。
私は、自分の奥深い場所で、
そういうことをまったく信じていたのである。

”エネルギー保存の法則”が咄嗟に出てきたのは、
おりしも物理の授業で習ったばかりだったのだろう。
「エネルギーにはいろいろな種類があり、
それらは互いに移り変わることができる。
しかし、どのような形に変わっても、
エネルギーの総量は、一定不変である」
というのが高校で習う程度の”エネルギー保存の法則”で、
この法則は、自然法則の中でも、
最も基本的で重要なもののひとつであるという。

思い、想い、祈り。
これらは目には見えない。
だから、「ある」のかどうかわからない。

大切な人が苦しみの中に立たされていて、
しかし自分には何もしてあげられない、という
無力感を噛みしめる経験は、誰しもに訪れるだろう。
そういうとき、人はどうするか。
私は、祈る。
その人を大切に思う気持ちが、
心配する気持ちが、
大好きだという気持ちが、
助けたいという気持ちが、
少しでもその人の力となるように。
歩く一歩ごとにその人の名を唱えている。
自然と天を仰ぎ、手を合わせてしまう。
「ただの自己満足だ」と批判する人もいるだろう。
そうなのだ。
その行為は、本当はなんの役にも立っていないかもしれない。
祈りが力だと、証明する術はない。
現に、切羽つまった逆境の中で、
心のすべてで祈っても、祈っても、祈っても、
ついにそれが聞き届けられなかった例は、
人の歴史の中で枚挙にいとまがない。

だが、私は思うのだ。
ならば何故、人はいまだに祈り続けるのかと。
科学や物質主義が主流と見えるこの世の中で、
祈りの文化が廃れないのは何故なのか。
普段は宗教や精神世界など、眉をひそめて足を踏み入れない人も、
身近な人が亡くなれば、自然と目をつぶり、手を合わせるだろう。
愛する人が手術室で病気と闘っていれば、
あの人を助けてくれと、両手を額にあてるだろう。
そして年の始めには、年に一度のイベント気分だったとしても、
寒くて混んでいて眠いのに、
たくさんの人々が神社へつめかける。
     
祈ったって聞き届けられない、
理性や意識の表面ではそうわかっているのに、
人間は祈ることをやめない。
祈ることをあきらめない。
それは、祈りが「自然なこと」だからではないのか。
物質的な、直接的な接触がないからといって、
思いが「存在しない」とは思えない。
目に見えないから「ない」とは言いきれない。
そんな希望を人は心の奥底に眠らせているから、
人はいまだに祈り続けるのだと、私はそう思うのだ。

思いとは、波動のようなものだと考えてみる。
その波動が、どう伝わって、どこに当たって、
どのような形で帰ってくるのか、
それはきっと人間の想像を超えている。
お金をくださいと祈ったらお金が手に入るといったような、
わかりやすい形では、帰ってこないのかもしれない。
でも、優しい思いは優しい波動となって、
いつか自分や他人に優しく帰るだろう。
悪意は悪意の波動となって、
いつか自分や他人に辛く帰るだろう。
そして、優しい波動はさらなる優しい波動をうながし、
悪意の波動はさらなる悪意の波動を喚起するに違いない。

優しい祈りが、この瞬間、ひとつでも多く生まれていますようにと、
私はやはり、祈っている。


=====DEAR読者のみなさま=====

「何故人は生きているのか?」

その問いの答えには、容易には近づけないことでしょう。
何百年も何千年も前から、多くの識者が考えつづけ、
未だに答えの出ない問いなのですから。
しかし一方で、
真実とはあっけないほど単純なものなのではないか?
気づいてしまえば、なんの抵抗もなく、
すとん、と胸に落ち着くものなのではないか?
という直感に近い思いも、私の中で消えません。
ただ、「気づく」ということが、
言葉で言うほど簡単なことではないのでしょう。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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