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河合隼雄を学ぶ・4「ファンタジーを読む③」

(前号の続きです)

【影との戦い ゲド戦記1】

ユングは「影をリアライズすることが、人間の責務である」ということを主張する。つまり、影のことを真に「知る」ためには、なんらかの「実行」が必要なのである。この物語は、まさにゲドによるゲドの影とのリアライゼーションが語られているのである。長い苦しい航海の末、ゲドはついに「影」に会った。一瞬に、ゲドも「影」も同じ名を語った。「ゲド!」

【こわれた腕環 ゲド戦記II】

アルハは生き変わり死に変わりして永遠の命を生きることになる。そこには個というものが存在しない。明確な個の意識は、人間が死の体験という犠牲の上に獲得したものなのである。

【さいはての島へ ゲド戦記Ⅲ】

ゲド戦記の三部作において、第一巻では、自我と影、第二巻では、男と女、という対が重要な視座を提供していた。この第三巻では、生と死、という対が重要になってくる。この三部作のテーマとして「均衡」ということがあり、それ故にこそ、多くの対が注目されるのであるが、やはり、生と死ということはそれらのなかの最大のものと言っていいだろう。

生と死の均衡が回復したということは、言わば、もとのまま、ということである。何も得ず、もとのままであることのために、ゲドは命がけの努力を払ったのである。

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あとがきにて、河合隼雄は、児童文学の専門でない自分がなぜファンタジーを読むのかといえば、そこに「たましいの現実」が見事に描かれているからだという。

たましいの存在を信じるか。

私は信じている、と思う。私の身体と精神を統合し、私を私たらしめているいるもの。身体が死んだら、生まれる前にいた、たましいの故郷に帰るのだろう、と考えている。

目に見えないものが、もっとも大切である。

目に見えないものを大切にしない世界で生きていくのは、とっても苦しいだろう。それは、特定の宗教を信仰しているかどうかは関係ない。

でも、そんな話をする場が、私たちにはあるだろうか。会社で、ビジネスの場で、「たましい」なんて単語を口にする場面が想像できない。

心と体の健康を扱う仕事をしているのに。

私は、それが少し苦しいのかもしれない。

児童文学を書きたいと希求するのは、たましいのことを真正面から語りたいから。そうなのかもしれない。

複雑で、ごちゃごちゃしていて、辛いこともたくさんあるこの世界から、ぽんっと、「でも真実って、これじゃないですか?」と、シンプルに取り出してみたいのだ。だから、生きていけると思うんです、と。

心理学、心理療法の大家である河合隼雄が、たましいについて語ってくれたのは、とても、とても勇気づけられる。


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