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人間が生きることを肯定したい・4「転生」

『草臥れた体が
旅の終りを悟る時 
私の心は
ふるえはじめる
この世に生まれて
初めて見た光を
再び感じることができるなら
私は私でなくなることを
恐れはしない』

~神岡学・神岡衣絵作「空になるとき」より~ 
               

『御魂(みたま)についた傷が、
癒されぬまま死ぬと、
その傷を抱えたまま、
また生まれてしまう・・・』

~水樹和佳子著「イティハーサ7」より~
                         

中学生くらいのころ、
「動物を食べなければ生きていけない自分」
というものを後ろめたく感じていた。
割と多くの人が持つ煩悶かもしれない。
「何故、食べるために、他の動物を殺さねばならないのだろう」
屠殺の場面を目の当たりにすれば、きっと「かわいそう」と目を覆う。
しかし、牛肉も豚肉も好んで食べる自分がいる。
その矛盾。その嫌悪。
だから、菜食主義の人を、ストイックでかっこいいと思っていた。
彼らは、他の生命を奪ってまで、肉を食しようとは思えないのだと。
食欲よりも、その慈悲の心が勝っているのだろうと。

そんなとき、
愛読している福永令三の「クレヨン王国」シリーズの物語の中で、
衝撃的な場面に出会う。
1人の男が時空をさかのぼる。
男は、あるときは山羊で、あるときはサボテンで、
あるときは魚で、あるときはトンボだった。
「魂は転生を繰り返す」
その概念に出会った最初であった。
様々な命に姿を変える男の絵を見て、
私は啓示のようにこう思った。
「私が今食べた牛は、前世では、牛である私を食べた人間であったかもしれない。今牛を食べた私は、来世では、人間に食べられる牛であるかもしれない。私の魂は、いろいろな命に姿を変えて、転生する。食べ、食べられるのも、お互い様なのだ」
その考えは、ずいぶんと私を楽にしたように思う。

今でも、その「お互い様」という考えは、
私の中で生きている。
しかしさらに、こういうふうにも考えるようになった。
私は死ねば土に帰るだろう。
その土は草を育てるだろう。
その草を草食動物が食べるだろう。
その草食動物を肉食動物や人間が食べるだろう。
そして、その肉食動物や人間も死んでまた土に帰るだろう。
やはりお互い様だ。
食物連鎖とはそうしたものだ。
生命の調和とはそうしたものだ。
そういう考え方をするようになってから、
菜食主義の人を別にかっこいいとは思わなくなった。
植物も動物も、同じ食物連鎖の輪の中に属する。
動物の命を奪うのがイヤなら、植物の命を奪うのもおかしい。
命とは、他の命をもらって生きるしかない。
それがイヤなら、餓死するしかない。
しかし、命とは、餓死する為に生まれるのではないだろう。きっと。
姿焼きにされる川魚などを見ていると、
感情では「あんな姿になって焼かれてしまって可哀想に」と思うが、
私はそれを買ってそれを食べ、
「私の血となり肉となって、またいつか一緒に土に帰るね。ありがとう」とも思う。

「魂は転生する」
「前世はある」
私などは、何故だかわからぬが、自然と受け入れている考え方である。
先述したように、気持ち的に「つじつまがあう」からであろうか。
この考えは、どのくらい人々に浸透しているのだろう。
メジャーなのかマイナーなのかはわからない。
信仰している宗教によるのだろうか。
魂は転生するのか?という問いの前に、
そもそも「魂」は存在するのか?というところから、議論は始まるだろう。
肉体の終わりが存在の終わりか否か、ずっと議論されつづけている問いである。
心・精神・魂などという類は、すべて脳の電気的反応だと断言する人もいれば、そんなはずはない、と考える人もいるだろう。
そのことを、ここで議論したり、証明したりするつもりはない。
私よりずっと賢くて知識のある人々が、
双方の立場で考えつづけても、答えなど出ない問いなのだ。
私は自分の感性で、これを書いている。

だが。
もし、「魂は存在する」「魂は転生する」と仮定した場合、
冒頭の「イティハーサ」という漫画のセリフが胸を刺す。
そうなのだ、と思う。
強い恨み、憎しみなどの感情は、魂に傷をつける。
その傷が癒されぬまま、
つまり、強い恨みや憎しみをいだいたまま死んでしまえば、
魂に傷が残ったまま、また生まれてしまう。
表面的な記憶はすべて失っているだろうから、
その人は、何故自分が、わけのわからぬ強烈な恨みを胸に持つのか、
不思議に思うかもしれない。
人は様々な性格、性質を持つものだが、
まれに、常識的な良心を持つ一般人にはとても理解のできない
邪悪さを持つ人間がいる。
生まれた後の出来事に理由がある、もしくは脳に傷がある、ということも当然あろうが、
先天的な魂の傷が、生まれた後の経験を悪い方に助長する、ということもありえよう。

恨みは、はらされなければならない。
憎しみは、解消されなければならない。
復讐せよ、ということではない。
相手を傷つけても、魂の傷は決して癒されない。
でも、魂に傷を持ったまま、死んではだめなんだよ。
なによりも、自分のために。
そのままでは、せっかく次の生をもらっても、
また苦しむことになってしまう。
どこかで、その悪循環を断ち切らねばならない。

ひとつのエピソードを紹介したい。
どこで読んだのか忘れてしまったので、
詳しい文献の名をあげられなくて申し訳ないが、
ひどく印象に残っている。
一人の青年がいた。
父親に虐待され、
耐えかねて、青年はついに父親を殺そうとする。
泥酔した父親を正にナイフで一突きにしようとしたその瞬間、
頭の中で爆発するように”声”が響き渡ったという。
「いつまで繰り返すつもりなのだ!」
その時、青年は思い出した。
前世でも、そのまた前世でも、
青年は父親から虐待され、父親を殺していた。
しかし、青年は結局ひどく後悔し、
次の生では必ずこの悪夢を断ち切り、
自分の力で幸せになろうと決心して世を去っていた。
だが、次の生では、当然ながら前の生の記憶を失い、
悲しくも、同じ悲劇を繰り返していたのだ。
青年はついにナイフを捨て、世界に飛び出して行った。

強烈な恨み、憎しみを解消できるものは何か。
どうしたら、魂の傷は癒されるのか。
それは、簡単なことではない。
愛で、とか、優しさで、と言ってしまうのはたやすい。許せ、というだけならたやすい。
けれども、当事者の苦しみは、
そんなキレイ事を一瞬で吹き飛ばすくらい、強烈なものだろう。
だけど、諦めたくないのだ。
魂に傷を持ったまま、死んではだめなんだよ。
絶対に。
ならば、どんな希望がある?
私はそのことを、このメルマガを通して、
考え続けている。

=====DEAR読者のみなさま=====

志なかばで他人に殺されれば、
当然無念で恨みも残るでしょう。
つまり、魂に傷がついたまま、死んでしまいます。
そういう意味でも、
「人を殺してはいけない」と言えるかもしれませんが、
「そんなこと、俺には関係ないね」と言われればそれまでなので、
難しいのですね。
それに、
「そんなこと、俺には関係ないね」と言う人の魂にこそ、
深い傷があるのですから。

みなさんは、魂ってあると思いますか?
それとも、心なんて、脳の作り出す幻想だと思う?
私は、正直いって、まだどちらだと他人に断言できるほど、
勉強も体験も積んでいない気がします。
世界は、人間は、私が「こうだ」と断言するには、
広すぎて、深すぎて、不思議すぎます。

今回はまた、重い問いを自分の中に囲いました。
このメルマガを通して、
自分なりの答えを探して行きたいと思います。

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※これは20代の頃に発信したメールマガジンですが、noteにて再発行させていただきたく、UPしています。

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