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河合隼雄を学ぶ・15「こころと脳の対話③」

(前号の続きです)

【「魂」を救う対話】

<河合>フロイトの有名な言葉で、クライアントの人がこられて、お話を聞いているときは、「平等に漂える注意力をもって」といいます。英語でいうと、「フリー・フローティング・アテンション」。これはパラドックス(逆説)なんです。なぜかといえば、アテンションというのは方向をもっているわけです。でも、それ(方向)をもたない、アテンション。だから、やっぱりさっきいわれた『五輪書』なんかと一緒ですよ。相手のどこかに注意したらあかんというのと一緒で、全体に、平等に注意を向けている。そうしていてふっと気になるもの、それがやっぱり大事なんですね。そういうふうに考えたらいいと思う。<茂木>河合先生がそういうことをおつしゃるとき、バーッと広がる感じというのが、ちょっとこれまた不用意にいうと誤解する人は誤解するんだけれど、ちょうどニュートンの古典力学に対して量子力学が出てきたときに、ものすごくバーッと広がった感じと似てると思って。

<河合>ユングはおもしろいことをいってるんですよ。「現代人はイライラするのが当たり前だ。自分の向かう目的地のことをなにも知らないのだから」と。目的地というのは死ですね。みんなびっくりせんでも、ここにおられる人たちの未来の死亡率は百パーセントなんですよ(笑)。そうでしょう。ところがむかしの人はみんな、逝ってからのことは全部知ってたわけですね。極楽ゆきやとか、なんとか。いまの人はそれがわからないで逝ってるから、それはイラつくのは当たり前。明日パリへ行くのに、パリのことを全然知らないとイライラするでしょう。<茂木>逆にいうと、現代には「わかりたい病」というのがありますね。メディアがつくるわかりやすいストーリーを一見信じているような人の心の奥底に、じつは「板子一枚下は地獄」じゃないですけれど、いま河合先生がいわれたような「どうなのかわからない」という不安があるのかもしれないですね。

<河合>近代科学は、さっきいったように「分ける」ことから始まっているんですね。僕の考えは「関係性」ばっかり大事にしていっている。その「関係性があるものを科学する」というやつが、だんだんできてくるんじゃないか。宗教的なもの、科学的なものと分かれているのが、相当な接点をもってくるんじゃないか。いちばん僕の関心のあるところがそこなんですよね。<茂木>私がいま、いちばん関心をもっているのは、「確率」という問題なんですね。現代の科学では、不確実なものは確立としてしか記述できない。たとえば「あなたがあと五年以内に死ぬ確率は何十パーセントだ」という言い方をする。だけど、本人にとってはゼロか百しかないわけ。主観的な体験と、確立とがものすごく分離しちゃっていて、確率のほうで扱うこと---数理経済学とか---はすごく発達しているんですけれど、個別性とか、一人ひとりの人生に寄り添って考えるという知は、ほとんどいま壊滅状態というか、科学の対象にすらなってないわけですね。「いかに生きるか」という知が。じつは、私が研究している脳と個の関係を考えるうえでのカギなんです。いまの脳科学は、統計的真理しか扱えない。何人の被験者のうち、何割がこうだ、という。でも本当に問題なのは、一人ひとりの脳なんですね。どうもそこらへんに、河合先生がいまいわれた、融合の可能性があると思うんですよ。




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