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河合隼雄を学ぶ・2「ファンタジーを読む①」

児童文学作家を志すものとして、河合隼雄の「ファンタジーを読む」は何度も読んだ。

心理療法家である河合隼雄が、なぜファンタジーや子どもの本に関する著作をたくさん出しているのか。それについては、こんなふうに書かれている。

『心理療法を長年行ってきて、近年はあまり流行しなくなった、などというより、心理学の世界では完全に忌避されていた「たましい」ということを、最も大切なことに感じるようになったものの、どのようにして他人に伝えたものかと思っているうちに、「児童文学」という素晴らしい媒体を見出した。』

この本も、ファンタジーの傑作と言われる作品が、「たましい」という目に見えないものを、どのように描いているか、ということを考察している。

まず、ファンタジーとは何か、ということに関して、河合隼雄がどう認識しているかが重要である。

ファンタジーとは、空想、妄想、頭で考えた作り話などではない。

ファンタジーとは、無意識から湧き出てくる内容に対して、意識が避けることも圧倒されることもなく対峙し、そこから新しく生み出されてくるものである、と河合隼雄は言っている。

意識と無意識の対峙のなかに身をおいて、苦闘していると、そこから本人の個性と深い関わりを持ちつつ、なおかつ普遍性を持った物語が生み出されてくる。それがファンタジーである。

ミヒャエル・エンデは、それは修行者の苦行に等しいものであると言った。命がけの文学なのである。

それゆえ、ファンタジーの作家は、無意識の圧倒的な力に耐えていくため、強靭な意識をもたねばならない、と河合隼雄は言う。

心理療法家としての河合隼雄のところに来るクライアントは、他ではもう見放されたり、一般的には諦められたりしている人だが、「たましい」の存在に対する確信が、河合隼雄を支えていた。その人のたましいに期待し続けると、思いがけない展開が生じてくるという。

ファンタジーとは、そうした「たましい」のあらわれ、「たましい」のはたらきを伝えている文学である。

以下、取り上げられている作品ごとに、印象に残る部分を紹介する。

【マリアンヌの夢】

傷つけあって、死を願いたいほどにも関わらず、なお関係を続けようと決意すること、それを成し遂げていくことを愛と呼んでいいこではなかろうか。このような内的経験をする間、ひとりの少女を守るために病気ということがある、と考えてもいい。彼女は内界の仕事に従事する間、外的な仕事を免除されるのである。

【人形の家】

心理療法家にできる唯一の本質的な仕事は、「願う」ことである。ここで大切なのは、あきらめずに願い続けることである。そうすると、不思議なことがよく生じるのである。ことりさんの死は、本当に衝撃的であった。心理療法家という仕事が命がけの仕事であることを、あらためて思い知らされるような気がした。多くの人形たちが、治療者のなかで生まれたり死んだりして、その全体の流れのなかで治療が進んでいくのだろう。

【はるかな国の兄弟】

人間にとって、死ほど運命を感じさせるものはない。「何もかも前もって決められている」ようにみえるなかで、人間としてできる限りのことをすること。怖くてたまらなくても、するべきことをやり抜くこと。これらの中で、弱虫のクッキーは最後には「小さな勇ましいクッキー」と呼ばれるまでに成長していったのである。

【七つの人形の恋物語】

七つの人形は、ミシェルという男のいろいろな属性であり、それらはそれなりに自律性をもつものの、ある程度、ミシェルの支配に従うものである。しかし、ミシェルの分裂を癒すためには、ミシェルにとって、もっと他者性を強く有するムーシュという女性が必要であった。最も汚れた関係のなかムーシュが苦しみ、ミシェルも自己嫌悪に陥っているとき、たましいは背後で作動していた。そして、そのことは人形たちの動きとして顕在化され、彼らを救いに導いたのである。

(次号に続きます)





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