分かりやすいことと、正しいことは違う
働き始めて、もう4ヶ月が経とうとしている。
2ヶ月間のテレワークを終え、今は少しずつオフィスに出勤する頻度も増えてきた。
毎朝あたふたしながら朝食を食べ、身支度を済ませ、カバンを背負って満員電車に揺られる毎日にも慣れてきた。
仕事自体は楽しいし、幸いなことに今のところ不安や不満はほとんどないな、と思えている。
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ただ、一つだけ、違和感があるとすれば。
それは、仕事で触れている、「人の性格をデータ化して分析する行為について」だ。
それは例えば、「この人はこの様な性格を持っているから、こういう人で、こんな仕事に適している/適していない。」
みたいなことを性格検査の結果を用いて分析するものだ。
でもそれは本当に正しいことなのだろうか。と疑問に思う。
だって、100人いれば100通りの人格があり、生きてきた歴史があり、彼らを支えてきた家族や親友の姿があるはずだ。
それなのに十把一絡げに、型に当てはめて分析し理解することなんて、果たしてできるんだろうか。
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目まぐるしいスピードで時間が流れていく資本主義社会の中では、分かりやすいことが善になる。
だから定性的な人の性格を、分類し、分析し、他者と比較することで、”分かりやすく”する。
そもそも、分かるは、「分ける」と語源を同じくしているとも言うから、
物事を分かる(理解する)ためには物事を分ける(区別する)ことが大切なんだろう。
でも、分かりやすいことと正しいことは違うよなと、この仕事をしているとつくづく思う。
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そんなことを考えていた矢先、あかしゆかさんのNoteの中で、村上春樹さんの言葉に出会ってハッとした。
白か黒かよくわからないところで行き惑うのが人間だし、その姿を思いやりを込めて描いたり、あるいは癒したりするのが、音楽や小説の本来の役目ですよね。
「人の気持ちや性質の、白黒つけられない曖昧なものを描く行為が、物語を紡ぐということだ」ということに心底納得した。
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きっと要約してしまえば、たかが3行などで済んでしまう物語を、ああでもないこうでもない、という登場人物の心の揺れ動きを捉えながら書き上げる。
そういう意味で、小説(物語)を読んで、いろいろな背景の中生きている人がいることを知ることで、個々人異なる性質を想像力豊かに捉えられる様になるのではないか、と思ったのだった。
本を読むことや表現に触れることは、分かりやすいことが好まれるこの世界で生きていくために必要な栄養素みたいなものなんだろうな。
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この仕事を続けていきたいと思うからこそ、
分かりやすいことと、正しいことは違うことを心に留めていたいし、
白黒なんてつけられない、人それぞれの性質を大切に扱っていきたいと思った1日だった。
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