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もし海外旅行に行けないOLが夏休みに外国の小読んだら


 タイトルの通り『もしドラ』がヒットしていた頃に書いた、海外の小説を紹介する文章。ホセ・ドノソ『夜のみだらな鳥』、パスカル・キニャール『アマリアの別荘』、莫言 『転生夢現』などを取り上げています。

(初出「メルマガクリルタイ」2011年8月2日号)

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 海外旅行に10年近く行っておらず、パスポートもずっと期限切れのまま。この夏も特に海外旅行を考えることなく終わるであろうOL、女の会社員であるところの自分ですが、そんな風に腰が重い割には、今ここにいる場所とは違った世界への憧れというものをひっそりと持ち続けています。
 旅行に行かずして、違った世界を旅することはできないか。そんな21世紀のものぐさ太郎の願いを叶える手段として、NHK「世界ふれあい街歩き」の視聴などがありますが、私はひとつ読書を推したいと思います。本一冊さえあればできる脳内旅行です。

 書店や図書館に出向いてブツを用意し、ひとたびそれに没頭することができれば、意識は国も時代も越えて信じられないほど遠くかなたへ。読後はしばらく現実に戻ってくることができずに、上司から頼んでいた書類はできているかと聞かれても、お母さんから「ごはんよ」と声を掛けられても生返事。そんな時差ボケのような感覚まで味わうことができるのです。

 せっかくの夏です。たとえ脳内旅行といえど、ちょっとそこまでの気軽な旅ではなく、自分の知らない土地を旅してみたいもの。ならば、遠い外国の小説です。なじみのない地名や名前、生活習慣や文化に戸惑うのはリアル旅と一緒。そこでめんどくさいと放り出さずに、ちょっと我慢してしばらく付き合ってみれば、いつの間にか今までに見たことのないような風景が広がってきます。

 ここまできて「この夏休みはあんまり予定も入ってないし、本でも読もうかしらねえ」と思ってくださった方のために、以前に自分が読んでかなり遠くに連れ去られてしまった小説について、ツアーパックをおすすめするHISのお姉さんのようにお話できればと思います。



悪夢的なカーニバルに迷い込むチリの旅 ―― 『夜のみだらな鳥』ホセ・ドノソ著、鼓直 訳(集英社)

 蒸し暑くて眠ることのできない真夏の夜には、思い切ってこの世のものならざる、迷宮のような世界に飛び込んでみるのはどうでしょう?

 主人公は、老女ばかりの修道院で暮らす年老いた唖の男、ムディート。物語は、過去にウンベルトという名で名門アスコイティア家に仕えていたムディートの独白で語られます。
 この物語に登場するのは面妖な人物ばかり。アスコイティア家に生まれた二目と見られぬ畸形の跡継ぎ息子・通称<ボーイ>、主人公と表裏の関係にある主人ドン・ヘロニモ、ムディートが恋焦がれるドン・ヘロニモの美しい妻イネス、イネスと表裏の関係にある醜い魔女ペータ・ポンセ……。
 〈ボーイ〉が自分の姿を気にしないようにと用意された屋敷では、国中からさまざまな姿形をした異形の人びとが集められ、〈ボーイ〉を頂点とした異形の楽園のようなカーニバル的様相を見せます。

 このように、ムディートが語るのは妄想とも現実ともつかない悪夢的、強迫観念的な物語。小説は語りの順序もなにもなく、時間と空間が自由自在に交錯します。例えば、会話の途中で時空が一変するといった前衛的なつなぎを施したりする、超絶的な小説テクニックには驚くばかりです。

 ニ段組で400ページを超すボリューム、しかも現在絶版中で図書館か古書でしか手に入らないので、なかなかハードルの高い本ですが、 強烈なイマジネーションと奇想天外な物語に一度読めば忘れられない一冊となることでしょう。


パリからイタリアへ、いい女の一人旅 ―― 『アマリアの別荘』パスカル・キニャール著、高橋啓 訳(青土社)

「いい女の一人旅」……口に出してみるとあまりにチープで力が抜けてしまいそうな言葉ですが、「いい女」と呼ぶしかない主人公というものは確かに存在します。

 アンはパリに暮らす47歳の女。たまにCDを出す現代音楽家で、普段は音楽出版社に勤めています。彼女は内縁の夫が若い女と浮気をしていることを知り、それでもアンを愛していると言って追いすがる夫に別れを告げます。出版社を辞め、自分の家を売り払い、家具や写真、洋服もすべて処分するという入念な準備の上で、アンはこれまでの自分の人生から忽然と姿を消すのです。
 誰にも行き先を告げず、オランダからスイス、イタリアへと渡り、ナポリの海に浮かぶイスキア島にたどり着くアン。島の崖の上に建ち海を見渡す誰も住んでいない家に激しく魅せられた彼女は、持ち主である老農婦からこの家を借り受けます。「アマリアの別荘」というのは、この家の名前です。

 50も間近だという物静かで魅力的な一人の女が、これまでの生活を捨て、自分の強い意思と望みの上で孤独を選ぶ。恋人やそれに近い友人を得ることがあっても、潮時になれば薄情と思えるほどにあっさりと別れる。男であろうと女であろうと、読み手は彼女の自由と勇敢さに憧れの念を持ち、洗練された端正な文章で綴られる冒険の旅路にぐいぐいと引き込まれていきます。

 「訳者あとがき」で訳者の高橋啓さんが、この本を読んだ女性読者ひとりひとりに「彼女にシンパシーを感じるか感じないか、いい女だと思うか思わないか」聞いてみたいと書かれていますが、力いっぱい「感じる! 思う!」と答えたいと思います。


動物の目から眺める中国の旅 ―― 『転生夢現』莫言 著、吉田富夫 訳(中央公論新社)

 人生が二度あれば……と願ってみても、結局、人生というのは一度限りのもの。それならせめて動物の生を授かって、自分が死んだ後の世界をもう一度見ることができたら?

 架空の土地、山東省高密県東北郷に住む西門鬧は、中国の土地改革によって悪徳地主のレッテルを貼られて銃殺されてしまいます。地獄で閻魔様に冤罪をうったえ続けた西門鬧は、どういうわけかロバ、牛、豚、犬、猿と動物への転生を繰り返すはめになり、1950年から2000年までの50年の間、自分の一族の運命を見守っていくことになります。そう、これは動物目線で描かれた、ある一族の年代記なのです。

 人間時代の記憶をわずかに残しているといっても、動物に転生した西門鬧の魂は肉体の本能に引っぱられます。ロバや豚として動物の生を謳歌し、ちょっと離れたところから自分の残した家族の行く末を眺めるのです。動物になった西門鬧の生はなかなか牧歌的。私はロバ編が一番好きです。アオ~ン!と鳴く洒脱な性格のロバ氏が、愛らしい雌ロバと繰り広げるかわいらしいロマンスは必見。

 一方、近代化する中国とともに生きる一族には波乱万丈の運命が待ち受けています。小さな村の一族のエピソードを通じて、文革から改革開放路線まで、急激な変化を続けてきた中国という国の半世紀が浮かび上がってきます。

めくるめく愛を求めるトルコへの旅 ―― 『無垢の博物館』オルハン・パムク著、宮下遼 訳 (早川書房)

 最後はイスタンブルで物狂おしいほどに甘美な恋の旅を。
 1975年のトルコ、イスタンブル。主人公のケマルは齢三十歳にして、一族の輸入会社の社長を務める青年実業家。美人で聡明なスィベルとも結婚間近で、まさに人生の花盛り。
 そんなケマルが偶然再会したのが、遠縁にあたる18歳の娘フュスン。一瞬でその危うい美しさのとりことなったケマルは、彼女をアパートの一室に誘い出し、我が物とすることに割とあっさり成功してしまうのですが……。

  これは恋に捕らえられ、抜き差しならないところまで突き詰めてしまった男の、哀しく滑稽で純粋な一生の物語。「賢く美しい妻と官能的な愛人、若くして両方を手に入れちゃうなあ」なんて(ひどいもんですね)、悦に浸っていられたのもつかのま。ケマルはいつしかその恋に絡め取られ、婚約者や友人と一緒にいるときも、念仏を唱えるように「フュスン、フュスン、フュスン」と恋人の名を口の中でつぶやくようになり、彼女にゆかりのものならスプーンだろうとゴミだろうと何でもコレクションするという、「ケマル、アウトー!」な行動を取るようになっていきます。

 フュスンを想いながら、熱に浮かされたようにイスタンブルの街をさまようケマル。知らない街を訪れることは、たとえ読書という疑似体験であっても日常から心を浮き立たせてくれますが、さらに恋の世界に生きる男に気持ちを重ねることで、この小説の読者は二重にも三重にもトリップすることができるのです。

 いかがでしたでしょうか。
 このほか、ドイツの暗い森を舞台にしたダークファンタジー『クラバート』(プロイスラー 著、偕成社)、色気と貫禄ムンムンのイタリア貴族の斜陽を描く『山猫』(ランペドゥーサ著、岩波文庫)、旧ソ連の宇宙飛行士青年の奇妙な青春『宇宙飛行士オモン・ラー』(ペレーヴィン著、群像社 )、日本によく似た架空の国のクロニクル『蕃東国年代記』(西崎憲著、新潮社)なども紹介するつもりが、ぜんぜん文字数が間に合いませんでした。

 予定のある方もない方も、本を片手にどうぞ素敵な夏休みを! ボン・ボヤージュ。


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