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残念ですが日本は「反左翼」か「反戦前」の人ばかりなのかもしれません

むなしい空中戦ばかり?

「日本はどういう国を目指すべきか?」という問いに、すらすらと答えられる人はそうはいないだろうし、あまりにすらすらと答えられても、何か嘘くさく感じてしまうに違いない。「そんな、主語の大きな話をされても」と。

ツイッターを中心に、政治的議論は今日も白熱しているが、激しいと見える右左の対立、親安倍・反安倍の火花も、ふたを開けてみれば「献血キャンペーンのイラスト」だとか、「3000円のパンケーキ」だとか。大きな話題でも「トリエンナーレ問題」「嫌韓」「モリカケ騒動」くらいのもの。かなり政治的に大きなイシューだった集団的自衛権の論争も、2015年のことでもう4年も経ってしまっている。

少子高齢化や年金、災害対策の問題も大きな話題ではあるが、基本的には予算配分の問題でしかない。ゼニカネの話は大事だが、今や安全保障・国防も、一般的に語られる部分はこの配分問題の話として終始している。

どうもネットを中心に激化している左右の争いが、むなしい空中戦に終始しているように思える。これでいいんだろうか? どうしてこうなってしまうのか。そのヒントを、『表現者クライテリオン』11月号と、『中央公論』11月号の記事から考えてみたい。

「反左翼」でしかなかった戦後の保守

『表現者クライテリオン』は気合の入った「安倍(政権)批判」。批判ありきではないけれど、保守という立場で、しかもつい最近まで内閣官房参与だった藤井聡氏が編集長を務める雑誌で「安倍晋三 この空虚な器」とどんと打った表紙はもちろん、メインの座談会もインパクトがあった。

「空虚な器、とはどういうことか?」は、本誌を読んでほしいところだが、つまるところ、安倍晋三という人間は「反朝日・反戦後民主主義・反左翼」というポーズをとっていただけで、それなのに周りの人々が彼に「保守主義者」の幻想を見てしまったのではないか、ということだ。

私はこれまで「あべ本レビュー」と題して、親・反安倍論調の本を読んできており、かなり手厳しい安倍政権批判にも触れてきた。反安倍論客による安倍批判よりも、世間的には同じ「保守」とされる人々から、「彼は保守ではなく、単なる反左翼に過ぎなかった」と断じられる方が安倍総理本人やその支持者に痛烈に響くだろう……と思うのは私が安倍政権にかなり厳しい姿勢を取っているからで、そうでない支持者にとっては大したダメージもないのかもしれない。

この号の発売から5日ほどたっているが、いわゆる「安倍応援団」と目される人々の言及はまだ見かけていない、反論もない。読んでスルーしているのか、読んでさえいないのか。

この「安倍晋三は単なる反左翼」という指摘が響くのは、おそらく戦後の保守の在り方に元々疑問を持っていた人に限られるのか。戦後の保守、あるいは「右派」と世間的に目されている人々のうちの大半が「反左翼」に過ぎなかった、というのがおそらく本当のところだからだ。私自身もその疑いからは逃れられないわけだが……。

保守論壇誌は「左翼伝染病の免疫」

だが、それは今に始まったことではない。論壇誌についていろいろと考えていたときに読んだ竹内洋・編『日本の論壇雑誌―教養メディアの盛衰』(創元社)には、あっと驚くことが書いてあったのだ。

それは、90年代の右派論壇を牽引した『諸君!』が創刊された際の、有識者たちのコメントだ。

「戦後左翼に違和感を持っている人は受け皿もなく孤独だった(が、ようやくその受け皿ができた)」
「保守というより反左翼で、左翼的偽善をこっぴどく叩く」
「左翼伝染病に対する免疫」

……そもそもの出発点が「反左翼」だったというわけだ。もちろん冷戦構造や共産主義の台頭、革新幻想など、左翼が強かった時代背景もある。「左翼的じゃないのに世の中に関心があると、即右翼とみなされる」ような状況さえあったという。左翼が強かったからこそ、反左翼というポジションに価値があったということだろう。

この頃の状況を引きずっていればこそ、「反左翼」に過ぎない安倍総理が支持者には「保守政治家」、批判者には「極右政治家」に見えてしまったということなのだ。いや、安倍晋三ひとりの問題ではなく、「保守」とされる政治スタンスそのものが、おおよそ「反左翼」でしかなかったというべきなのだろう。

ヘタってきた左翼は自分を見失っている

あくまでも「左翼全盛時代」はそれでよかった。だが今や共産革命を夢見る人は、存在してはいるだろうがかつてと比べればわずかな勢力となり、朝日新聞も部数を減らしている(しかも社説以外の記事での論調には変化が見られる)。左翼が強ければ「反左翼」も立派な思想だが、左翼がヘタりつつある今、「反左翼」だけではどうにもならない。保守言論誌と言われる媒体の全盛期にあって、09年に『諸君!』が休刊となったのはそういうわけで、役割を終えた面がある。

そこで合わせて読みたいのが、『中央公論』11月号、社会学者の倉橋耕平氏が「〈左派メディア〉は誰に、何を、どう伝えるべきか」だ。

もうタイトルからして「おいおい、大丈夫か」といった風情だが、戦後、「反戦前(戦争責任、戦後責任、平和主義)」への関心から始まった左派雑誌(『世界』)だったが、これが90年代の保守言論に競り負け部数を減じていく。まあ戦後70年たってるのに「反戦前」だけではどうにもならないだろう。

「じゃあ、そのあとは?」というと、端的に言えば「ない」ということになる。「革新」という言葉も消え、それどころか若者からは「革新=大阪維新」であり、「九条護持」の政治勢力は守旧派とみなされる始末。

倉橋氏はこう書いている。

今回、「左派メディアの課題」というテーマで執筆依頼をいただいて、「左派」とされる人々が「自陣」の現在形をとらえきれていないのではないか、と考えた。「対策を講じないと!」という声は勇ましいが、まずはなぜこうなっているのか現状把握に努めた方がいい。

倉橋氏自身、学者であって「(ネット右翼や右翼言論を研究対象にはしているけれど)左派言論人ではない」から、べき論をぶったり、シュプレヒコール的掛け声を発することを求められる立場ではない。しかも、媒体は『中央公論』で、右派ではないけれど左派ではもっとない「中道保守雑誌」である。

しかしそのことを差し引いても、もはや左派は「自陣の現在形もとらえられない」「何を誰に訴えるのか、から考えなければならない」状況にある。伝統的左派雑誌のテーマと、ネット上で「左派・左翼」とみなされている人々の姿勢を見ていると、もはや左翼とは「反右派(反排外主義、反自由主義史観(反戦前肯定)、反安倍)ではないかとすら思えてくる。

……これ、めちゃくちゃヤバくないだろうか(急に語彙不足。もちろん若者が使う肯定的な意味での「ヤバい」ではない)。

もはや、右にも左にも、「反〇〇」の人しかいないのでは???

「朝日の逆は、常に正しい」を乗り越えろ!

倉橋氏が指摘しているように、現在の「右派媒体・ネトウヨ」は「反メディア」である。「権力を監視する(テレビや新聞というマス)メディアを(活字やネットを使って)監視する」のが一つのスタンスだからで、これ自体は責められることではないどころか、むしろもっとやるべきだろう。

しかし問題は、それがともすれば「単なる反メディア」でしかなく、「メディアが叩くものは正しい、メディアが持ち上げるものは間違い」的な脊髄反射に終始することだ。主に右派言論で安倍政権に対する検証がうまく効かないのもこの辺りにある。「メディア(特に朝日新聞)が叩く安倍政権の政策は擁護する、朝日が叩かない問題はスルー」ということになると、政権に対するスタンスは「褒めるか、擁護するか、見なかったことにするか(実際に全く見えていない場合もある)」しかなくなる。

昔、ある保守派の人が、冗談半分でこんなことを言っていた。

「朝日新聞の逆は、常に正しい」

これを聞いて私は内心、震え上がった。「朝日新聞の価値判断に、自分の判断をゆだねてしまうのか?」と。もちろん半分は冗談で、「結果的にそうだった」という話でもあるのだが、もう半分はそうではないのだ。

お互いに対する「反〇〇」だけでは、世の中を構築することはできない。争わなくていいことで争い、「あいつがAだといっているから、Aは間違いなのだろう」などどいっていると、本質を見失う。なにより、すべてが受動的になってしまう。

『表現者クライテリオン』の特集記事は、「絶望から始めましょう」という言葉で締めくくられている。X JAPANのYOSHIKIのヘッドバンキングかというくらい、うなづくしかなかった。 

……ちなみに、リベラル派でありながらその「ヤバさ」を共有しているのではないか、と私が勝手に思っているのがこちらの記事なので、ご関心ある方は続けてお読みください。


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