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《世界史》ナポレオンの宿敵アレクサンドル1世

こんにちは。
Ayaです。
今日はエカチェリーナ2世の息子パーヴェル1世の即位から取り上げます。

パーヴェル1世(1754〜1801)

パーヴェル1世はピョートル3世とエカチェリーナ2世の間に生まれましたが、誕生時からエカチェリーナ2世の愛人の子ではと言われていました。このためかはわかりませんが、母エカチェリーナ2世を嫌い続けていました。エカチェリーナ2世も彼が幼いときに取り上げられたためか、彼に愛情を持てず、廃位する計画も立てていたと言われています。その実行前にエカチェリーナ2世が崩御したため、パーヴェル1世は即位しました。
しかし、彼の政治はエカチェリーナ2世の政策をただ逆行するものだったため、大貴族たちの反感をかいます。
結局クーデターでパーヴェル1世は暗殺されてしまいます。そのクーデターに関与していたのが、息子のアレクサンドル1世でした。

パーヴェル1世
母のような女帝の即位を妨げるため、女性の皇位継承権を廃止した。


アレクサンドル1世(1777〜1825)

アレクサンドル1世はパーヴェル1世の息子として生まれましたが、幼少時から祖母エカチェリーナ2世のもとで養育されます。かといって、父と対立していたわけではありませんでした。家庭教師たちからは当時最先端の自由主義を学んでおり、熱心に耳を傾けていたように思われました。しかし、これらはあくまで彼の『八方美人』の性格であり、真意はわからない人間でした。
父パーヴェル1世へのクーデターのときは、父の暗殺までは想定外だったと言われています。しかし、父の性格を知らなかったはずがないですし、暗黙の了解を与えただろうと考えられます。父親へのクーデターを担ったという十字架は一生付き纏いました。

アレクサンドル1世
フランス語は完璧で、ナポレオンの元皇后ジョゼフィーヌとも友情を結んだ


アレクサンドル1世は長身でフランス語も流暢な美青年でした。そんな彼に嫉妬していたのは、ナポレオンでした(背が低く、イタリア語訛りのフランス語を話していた)。しかし、そんなことよりもナポレオンが警戒したのは、彼の『八方美人』的な性格です。なんとかナポレオンは彼を味方につけたいと画策し、後妻に彼の妹を迎えたいと申し出ます。この話は彼が『母が悲しむので』とかわしてしまいます。これ以外にも大陸封鎖令を破ったことからナポレオンはロシアへ攻め込みます。アレクサンドル1世が才覚を疑問視していた老将クトゥーゾフが焦土作戦を行い、最終的にはロシアの冬にナポレオン側は大敗してしまいます。
ナポレオン流刑後のウィーン会議では英雄として迎え入れられますが、すぐナポレオンがエルバ島から脱出してしまったため、注目されなくなってしまいます。この頃から鬱病を発症していたと言われています。
帰国後彼は政治に関心を持たなくなって、キリスト教に傾倒し、妻と離宮に引きこもってしまいます。

老将クトゥーゾフ
彼の軍事的才覚はトルストイの『戦争と平和』でも取り上げられている。

ところで、彼と正妻の関係は変わっていました。正妻はエリザヴェータというなかなかの美人でしたが、なぜか彼は正妻に関心を持たず愛人を持ちます。一方、エリザヴェータも当てつけか不倫をし、愛人の子どもまで産んでしまいます(夭折)。お互いに不倫関係を清算して、やっと夫婦らしくなったばかりでした。
そんな彼女に看取られながら、アレクサンドル1世は1825年なくなります。享年46歳。
遺体はサンクトペテルブルクまで運ばれましたが、傷みが激しいということで、公開されませんでした。通常皇帝の遺体は公開されるものなので、みな訝しがりました。また晩年のアレクサンドル1世が皇帝という身分に嫌気がさしていたのは周知の事実でしたので、遺体は偽物で、本物のアレクサンドル1世が名を変えて生きているのではと噂になりました。

アレクサンドル1世皇后エリザヴェータ
故郷の母への手紙では夫の愛人に対する辛辣なことばが並ぶ。夫の庶子を引き取り育てた。

正体不明の老人 フョードル・クジーミチ

アレクサンドル1世が崩御してから10年後、ペルミという地に不思議な老人が現れます。年齢は60代ぐらい。近寄り難い雰囲気を纏っていたこの老人は、自身の名前フョードル・クジーミチしか思い出せないというのです。困った当局は彼をシベリア近くのトムスクへ流刑にします。
この老人はとても博学でフランス語も堪能でした。その上、ナポレオン戦争のことをよく知っており、その将軍たちとも親しかったかのような話をします。次第に身をやつしたアレクサンドル1世なのではないかと噂になりました。アレクサンドル1世の近習だった者がクジーミチを本物のアレクサンドル1世だと証言しますが、クジーミチは否定するだけでした。クジーミチは人々の尊敬を集めて、1864年なくなりました。
死後、彼は聖人となり、皇太子時代のニコライ2世もその隠棲の地を訪れています。

ニコライ1世(1796〜1855)

さて、話はアレクサンドル1世崩御後に戻します。子どもがいなかったため、弟のニコライ1世が即位します。彼はアレクサンドルより19歳年下で、エカチェリーナの死後に生まれたため、父パーヴェル1世の影響下で育ちます。その専制君主思想のため、即位時にはブカリストの乱に遭遇します。乱は鎮圧しましたが、さらに思想を強化することとなります。
彼は周辺地域の独立戦争をことごとく潰していったため、『ヨーロッパの憲兵』と恐れられることとなります。しかし、トルコとのクリミア戦争で、旧式の軍備が暴露され、大敗します。戦後処理の最中、1855年崩御。享年58歳。まだ若いアレクサンドル2世が重責を担うこととなります。

ニコライ1世
専制君主として知られるが、息子アレクサンドル2世を皇子としてではなく、人間として育てた。

今日はここまでとします。父親による息子殺し、妻による夫殺しのあとは、息子による父親殺しでした。アレクサンドル1世がどれぐらい父の死に関わっていたかは明らかになっていません。しかし、その後の一生引きずったようなので、関わっていたのかもしれません。アレクサンドル1世と謎の老人フョードル・クジーミチとの関係はわかっていません。少なくともフョードル・クジーミチは上層部の貴族だったのでしょう。
アレクサンドル1世と妻のエリザヴェータは不思議な関係ですね。彼の愛人とのやりとりをみてると、エリザヴェータも苦労してるなぁと感じます(彼女も不倫してるけど)。
一方、専制君主として知られたパーヴェル1世とニコライ1世の夫婦仲は良好でした。私生活はわからないものですね。
さて、次回はアレクサンドル2世について取り上げます。

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