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《世界史》ロココの女王ポンパドゥール夫人

こんにちは。
Ayaです。
今日はルイ15世の愛妾たちについてまとめます。

ルイ15世(1710〜1774)

ルイ15世は1710年ルイ14世の孫(プチ・ドンファーン)の次男に生まれます。生まれたときは王位継承順位は低かったですが、祖父(グラン・ドンファーン)の病死後、麻疹で父と兄が相次いで亡くなり、ルイ14世の跡継ぎとなります。1715年曽祖父のルイ14世が崩御したため、5歳にして即位します。
先代ルイ14世と同じ5歳での即位となりましたが、フロイドの乱のような内戦にはなりませんでした。すでに貴族たちはヴェルサイユ宮殿で生活しており、反乱の拠点である各領地は地代を集めるだけの存在となっていたからです。摂政にはルイ14世の甥オルレアン公フィリップ2世がルイ14世の庶子たち(母はモンテスパン夫人)を蹴落として就任していました。この時の取引きでパリ高等法院に強大な権力が与えられ、後日問題となります。
1725年に病に倒れ、助かりますが、前述のように後継者がいない状態が問題となります。なので、それまでの婚約者は幼すぎるということになり、すぐ出産可能な前ポーランド前国王の娘マリー・レクザンスと結婚します。格下の相手でしたが、マリーは期待通り11人もの子どもを出産します。しかし、マリーは度重なる出産に疲れ、夫婦の営みを拒むようになります。これによりルイ15世は性欲を持て余すようになり、たくさんの愛人を抱えます。そしてとうとう運命の相手と出会うのです。

ルイ15世
その美男ぶりから『美王』と称えられる。

ポンパドゥール侯爵夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソン(1721〜1764)

後のポンパドゥール夫人ジャンヌ=アントワネット・ポワソンは1721年ブルジョワの家庭に生まれます。当時の女性としては一流の教育を受けて、1741年役人のデティオール氏と結婚します。しかし、彼女には国王の愛人となるという野望がありました。そしてその機会はすぐ訪れます。1745年仮面舞踏会でルイ15世と出会うのです。ルイ15世はその美貌と知性に魅了され、すぐ愛妾とします。
国王から地位を見返りに離婚を求められますが、夫デティオール氏は激怒します。突然喪服で宮中に現れ、国王からどうしたのか聞かれると、『妻が死にました』と答えて偽の葬列を組んで宮中を退出するという怒りの行動にでました(後日妻より長生きし、再婚相手と恐怖政治時代も乗り切っています)。
こうして晴れの地位を手に入れ、ポンパドゥールの爵位と年金を得た彼女ですが、ある問題にぶつかります。
ルイ15世の性欲はとても強く、もともと体の弱い彼女では対応できなくなっていたのです。他の女性に心を移されても困るので、ポンパドゥール夫人は大胆な手段をとります。
自分で『鹿の園』という娼館を営み、王好みの女性を侍らせるのです。その女性たちに性的処理は任せ、自分は王の友人として付き合うというのです。勿論、これは自分の魅力に自信がなければできません。
ポンパドゥール夫人の策は成功します。ルイ15世は鹿の園の娘たちと戯れますが、ポンパドゥール夫人との関係は維持し続けました。実はルイ15世は政治的関心が薄く、ポンパドゥール夫人の助けがないと政治を運営できないほどになっていたのです。

フランソワ・ブーシェ『オミュルフィ嬢』
鹿の園にいたと言われる愛妾。美貌と若さでポンパドゥール夫人を凌駕したが、やはり知性では勝てず、いつのまにか嫁にだされていたという。


セーブル焼の開発や百科事典の編纂など文化事業に関わりますが、彼女の最大の実績は外交革命でしょう。スペイン継承戦争で争ったオーストリアとロシアと同盟を結び、新興のプロイセンに対抗するというものでした。オーストリアのマリア・テレジア、ロシアのエリザベータ女帝、そしてフランスのポンパドゥール夫人の全員が女性だったため、プロイセンのフリードリヒ3世は『ペティコート外交』と皮肉りました(ペティコートとは女性用下着のこと)。この外交戦略はのちにルイ16世とマリー=アントワネットの結婚に結びつきます。
当然のことながら、貴族たちは彼女の活躍が面白くありません。ブルジョワとはいえ平民出身の彼女が政治を切り盛りしているわけですから。ポンパドゥール夫人はそこも弁えていて、王妃や王の家族には謙虚に振る舞いましたが、貴族たちには容赦しませんでした。自分に反対する貴族を退け、自分と親しい貴族に交代させるという方法で、貴族たちまで支配していたのです。
20年以上政界を動かし、1764年42歳で亡くなります。通常ヴェルサイユ宮殿内で王族以外は死んではならないのですが、彼女は特別に認められました。ルイ15世は嘆き悲しみました。

ポンパドゥール侯爵夫人
彼女の髪型はポンパドゥールと呼ばれ、長い間愛された。彼女こそロココの女王である。

デュ・バリー伯爵夫人マリー=ジャンヌ・ベキュー(1743〜1793)

ポンパドゥール夫人を亡くして悲嘆に暮れていたルイ15世は1769年ある女性を紹介されます。デュ・バリー夫人でした。
デュ・バリー夫人本名マリー=ジャンヌ・ベキューは1743年私生児として生まれます。成長すると貴族の屋敷に女中として仕えますが、素行不良で解雇されます。その後洋裁店でお針子として働いていましたが、そこである男性に拾われます。男性の名前はデュ・バリー伯爵といい、札付きの不良貴族でした。彼は彼女に贅沢な生活を与える代わりに、自分の連れてきた男性たちに体を売らせます。このときに貴族たちと接触し、エチケットや話し方を身につけたと言われています。
このデュ・バリー伯爵にルイ15世は彼女を紹介されたのです。たちまちルイ15世は彼女の美貌と性的なサービスに魅了され、愛妾にすることを決めます。彼女はデュ・バリー伯爵の弟と偽装結婚し、宮中に招かれます。

デュ・バリー伯爵夫人
彼女のために作られた首飾りが、のちにアントワネットの運命を狂わせることとなる。

前任のポンパドゥール夫人とは違い、政治的野心はなかったので、貴族たちの賄賂で私腹を肥やしていただけでした。娼婦上がりということで、王の家族からは嫌われ、嫁いできたばかりのマリー=アントワネットからは徹底的に無視されました。これはフランスとオーストリアの外交問題まで発展します。とはいえ、愛嬌のある性格のため、貴族からの人気はあったようです。
しかし、彼女の天下は5年足らずでした。1774年ルイ15世が天然痘で倒れたのです。この時も若い娘と関係したためにうつされたと噂されました。デュ・バリー夫人は必死に看病しますが、当時悪徳の存在とされていた愛妾は崩御前に追い出されるという決まりでした。デュ・バリー夫人が追い出されたのち、ルイ15世は崩御します。享年64歳でした。既に息子は亡くなっていたため、孫のルイ16世が即位します。彼の即位によって、マリー・アントワネットは王妃となります。
ヴェルサイユ宮殿を追い出されたデュ・バリー夫人でしたが、領地で悠々自適な生活を送ります。彼女もマリー・アントワネットと同じく断頭台の露に消えるのですが、それはまたの機会に触れようと思います。

ルイ15世の愛妾で有名な2人をまとめました。よくマリー・アントワネットがロココの女王と言われますが、時代的にはポンパドゥール夫人のほうがロココの女王にふさわしいでしょう。一国の政治を切り盛りした彼女は毀誉褒貶ありますが、規模の大きい女性であったことはたしかです。
一方のデュ・バリー夫人はよくいる愛妾タイプで、あのような非業の死を遂げなければ、存在も忘れられていたでしょう。これはマリー・アントワネットにもいえることですが。
次はバロック美術についてまとめたいと思います。

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