見出し画像

《世界史》マリー・アントワネットと首飾り事件

こんにちは。
Ayaです。
今日はマリー・アントワネットの前半生と首飾り事件についてまとめます。

マリー・アントワネット(1755〜1793)

マリー・アントワネット(マリア・アントニア)は1755年神聖ローマ帝国皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジアの娘として生まれます。母マリア・テレジアは多忙な生活でしたが、家族でオペラを演じる家庭的な宮廷で成長します。勉強は苦手でしたが、ダンスと音楽は得意でした。容姿は鷲鼻と『ハプスブルグ家の顎』で平凡なものでしたが、礼儀作法は完璧でした。
母マリア・テレジアの『外交革命』によって、ルイ15世の孫の王太子ルイ・オギューストと婚約します。本当はすぐ上の姉マリア・カロリーナが予定されていましたが、その上の姉が亡くなり代わりに嫁いだので、この婚約が成立しました。政治家として婚約を決めた母マリア・テレジアでしたが、母としては娘に不相応な結婚に不安を感じていました。すぐ上のマリア・カロリーナは自分に似て聡明でしたが、マリー・アントワネットは若い上に誘惑に弱く、大国の王妃としてやっていけるのか不安でした。とはいえ、1770年14歳のマリー・アントワネットはルイ・オギューストと結婚しました。
当時ルイ15世の妃は亡くなっていたため、王太子妃となったマリー・アントワネットが宮廷では一番身分の高い女性でした。これをルイ15世の娘たちが利用し、ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人との対立を煽りました。マリー・アントワネットは性的に厳しい家庭で育ってきたため、デュ・バリー夫人の経歴も嫌悪感しかなく、彼女を無視し続けました。この対立はルイ15世を激怒させ、両国の外交問題に発展するところでしたが、母からの説得で新年のあいさつという体で沈静化させます。
1774年ルイ15世が崩御したため、夫ルイ・オギューストがルイ16世として即位し、マリー・アントワネットは王妃となります。王妃となった彼女はルイ14世時代の厳しすぎるエチケットを廃止しましたが、貴族にとってエチケットはもはやステータスであり、貴族の反感を買いました。また通称『モード大臣』のローズ・ベルタンを重用した衣装道楽や賭博、舞踏会にのめり込み、マリア・テレジアから叱りの手紙を受け取ることもしばしばでした。

王妃マリー・アントワネット
王妃として前時代的なエチケットを廃したアントワネットだったが、貴族たちからの反感を買った。故国オーストリアと彼女が愛用したダチョウの羽根をかけて、"オートリエンヌ"と陰口を叩かれていた。


これは寵臣のポリニャック夫人らの影響もありましたが、ルイ16世との結婚生活の不成立が原因でした。ルイ16世は先天的な不能で、結婚後も2人は肉体関係が成立していませんでした。これではこどもが生まれないので、兄ヨーゼフ2世に説得してもらい、ルイ16世に手術を受けることに同意させます。この手術のおかげで7年目にして肉体関係を結ぶことができ、1778年には長女マリー・テレーズを出産します。

ポリニャック夫人
マリー・アントワネットの友人にして寵臣。ポリニャック家再興を夢見てアントワネットに近づき、夫や縁者は高職を得た。露骨な愛顧だったため、アントワネットと同性愛の関係ではと噂された。


ルイ16世
暗愚な国王とされることが多いが、頭脳明晰で博学だった。特に理数系に強く、ギロチンの刃を斜めにするようにアドバイスしている。

1780年には母マリア・テレジアが亡くなりますが、翌年待望の男子ルイ・ジョゼフを授かります。その後次女ゾフィー(夭折)、1791年には次男ルイ・シャルル(ルイ17世)を出産します。子どもを持つようになると過度の浪費は止みますが、王妃としての義務より子どもとの時間を優先し、プチ・トリアノン宮殿に移ります。プチ・トリアノン宮殿ではルソーからの影響で『王妃の村里』を作り、親しい友人達とだけ交流しました。これは王妃としての義務から逃げる行動であり、閉鎖的な集まりに呼ばれなかった貴族からは反感を買いました。そんな中で『首飾り事件』が起きたのです。

プチ・トリアノン宮殿
ルイ15世がポンパドゥール夫人のために作らせたが、ルイ16世からアントワネットに贈られる。ルイ16世すら招かれなければ入れないアントワネットの"神域"だった。

首飾り事件(1725年)

パリの社交界にラ・モット伯爵夫人という女性がいました。彼女はヴァロア家の末裔を自称し、王妃マリー・アントワネットの親しい友人と吹聴していました。そんな彼女はロアン枢機卿という男性に近づき、金銭を巻き上げます。ロラン枢機卿は不品行な生活がマリー・アントワネットに嫌われており、なんとか愛顧を得たいと"友人"を自称していたラ・モット夫人に貢ぎます。
そんなとき、宝石商が首飾りをラ・モット夫人のもとに持参します。この首飾りはルイ15世がデュ・バリー夫人のために注文したものでしたが、ルイ15世が崩御したため引き取り手がなくなってしまいました。勿論マリー・アントワネットにも掛け合いましたが、デザインが気に入らなかったのと160万ルーブルと高額だったため、断られていました。他国の王室からも断られたため、''友人"のラ・モット夫人にアントワネットへの再度の取り次ぎを依頼したのです。

問題の首飾り
540個ものダイヤモンドで作成されていたが、派手すぎてアントワネットはデザインを好まなかった。

ラ・モット夫人は詐欺を思いつきます。この首飾りをアントワネットが欲しがっているとロラン枢機卿を騙し、前金を払わせ、首飾りもいただくという計画でした。大胆な計画ですが、アントワネットからの手紙を偽造したり、偽物のアントワネットに会わせたりで、ロラン枢機卿を騙します。ついに前金を払わせ、首飾りも手に入れます。首飾りはバラバラに解体し、各地へ売り飛ばします。いつまでも支払いがないのにしびれを切らした宝石商が代金を請求したことで事件が発覚します。
ラ・モット夫人、ロラン枢機卿らは逮捕されます。ロラン枢機卿は被害者でしたが、アントワネットは激昂し、主犯だと信じていました。裁判では罪から逃れるためにラ・モット夫人が王妃と愛人関係を結んでいたと虚偽の証言をし、人々の注目を集めました。結局ラ・モット夫人は有罪、ロラン枢機卿は無罪となり、人々の同情は犯行グループに集まります。ラ・モット夫人は肩に"V"の焼印(泥棒の意味)を押されて収監されていましたが、逃亡しロンドンで事故死します。
この事件にアントワネットは全くの無関係でした。しかし、日頃のプチ・トリアノンでの生活など人々の顰蹙を買っていたこともあり、主犯はアントワネットで、口封じのためにロラン枢機卿は左遷され、ラ・モット夫人は殺されたのだという噂が流れました。またラ・モット夫人が逃亡中の手記で嘘の王妃の私生活を赤裸々に書いたため、王室の権威は地の底に落ちたのです。

今日はここまでにします。マリー・アントワネットは本当に平凡な女性だったと思います。若い頃衣装道楽や派手な夜遊びに興じていましたが、それは後継ぎを産まなければならないというプレッシャーに対抗する行動だったのではと考えられます。子どもを出産しプレッシャーから解放されますが、多くの時間を子どもと過ごしたいという平凡な母の願いは大国の妃としては似つかわしくないものでした。すでに母マリア・テレジアを失っており、ポリニャック夫人をはじめお気に入りの友人に囲まれていて、自身への批判を感じ取れなかったのでしょう。しかし、彼女には過酷な運命が待ち受けていたのです。
しばらくはマリー・アントワネットとフランス革命についての特集が増えそうです。



この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?