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《美術史》世紀末美術

こんにちは。
Ayaです。
『世紀末美術』は前回・前々回でとりあげた画家たちだけでなく、随分前にとりあげたクリムトやシーレ、ミュシャも含まれるようです。なので今まで取り上げていない画家たちについて今回はまとめようと思います。

ジョヴァンニ・セガンティーニ(1858〜1899)

ジョヴァンニ・セガンティーニは1858年ハンガリー=オーストリア帝国領チロルで生まれました。父親は各地に大工仕事に出ていて、母親は若くして病死してしまいました。そのため異母姉のもとに預けられましたが、この異母姉とうまくいかず、家出。家出したセガンティーニは保護され、感化院に入れられます。ここの指導員が彼の才能を見抜き、彼の画家への道に導きました。
セガンティーニはアルプスの広大な風景とそこで放牧を営む人々の生活を描いて人気を得ました。『アルプスの画家』と呼ばれています。

ジョヴァンニ・セガンティーニ『アルプスの真昼』

牧歌的な作品で人気を得たセガンティーニでしたが、友人の影響で象徴主義的な作品も手がけるようになります。『悪き母たち』は堕胎の罪を犯した女性たちが送られる地獄を描いた作品です。この作品は堕胎した母親たちが地獄に落とされ、我が子に授乳することの喜びを感じることで救われるという詩に基づくものです。この作品を描いたのは若くして亡くなってしまった実母への愛憎のためでしょう。

ジョヴァンニ・セガンティーニ『悪き母たち』


幼い時に手違いで無国籍となっていたセガンティーニでしたが、スイス政府から国籍贈与の申し出を自分はイタリア人であるという誇りから何度も断っています。1899年41歳で亡くなりました。スイス政府は彼の死後国籍を贈与しています。

オディオン・ルドン(1840〜1916)

オディオン・ルドンは1840年フランスのボルドーに生まれました。
パリに上京し、ジェロームの門下となりますが、数ヶ月でやめ、各地を放浪するボヘミアン画家となります。
屈折した前半生と長男の夭折のため、鬱々とした画風で奇怪な生物たちを描いていたルドン。しかし、次男が生まれると、正反対の色彩豊かな作品に変化し、評価されるようになりました。

オディオン・ルドン『沼の花、悲しげな人間の顔』
デカダンス作家ユイスマンスの『さかしま』にこの作品が登場したことで知名度を得たルドン。当時最先端の顕微鏡でみた生物なども描いている。
オディオン・ルドン『キュクロプス』
キュクロプス(一つ目の巨人)のポリュペーモスはニンフのガテナラに恋するが、相手にされず、彼女の交際相手を殺してしまう。

65歳で勲章も受賞し、順風満帆の人生を歩んでいたルドンでしたが、悲劇が襲います。第一次世界大戦に招集された最愛の次男の行方が分からなくなってしまったのです。方々を探し回るうちに体調を崩して1916年亡くなりました。享年76歳。

エドヴァルト・ムンク(1863〜1944)

エドヴァルト・ムンクは1863年ノルウェーの医師の家庭に生まれました。幼い頃に母親が亡くなったことが後世の作品に影響を及ぼしたといわれています。
ノルウェー王立美術学校に入学し、サロンになんどか出品しましたが、評価は芳しくありませんでした。個展を開いても、芸術家協会の理事による決定でわずか1週間で打ち切られてしまうほどでした。

エドヴァント・ムンク『病める子』
若くして亡くなった母や姉をテーマに一年以上かけて制作した意欲作だったが、酷評された。

私生活でも2人の人妻と不倫関係に陥り、精神状態がさらに悪化します。彼の代表作といえば、『叫び』でしょう。

エドヴァント・ムンク『叫び』
この作品は4つのバージョンがある

『叫び』は実際に叫んでいるのではなく、『自然からの果てしない叫びに耳を塞いでいる人間の愚かさ』を描いたものです。しかし、この発想自体、精神的に不安定でなければ思いつかないものでしょう。
周囲にも暴力を振るうようになったため、ムンクは精神病院に収容されます。なんとか回復し、静養は一年で済みましたが、退院後、かつての『ムンクらしさ』はなくなってしまいました。皮肉なことに、このころからムンクは評価されるようになります。
裕福になったムンクは邸宅を購入しますが、支援を求める手紙や嫌がらせが続きました。
ナチス・ドイツが台頭し始めると、ムンクの作品は『退廃芸術』の烙印を押され迫害されました。そんななか、1944年亡くなりました。享年80歳。ナチスは彼の作品を迫害していたにも関わらず、人気取りのため彼の国葬を執り行いました。

ジェイムズ・アンソール(1860〜1949)

ジェイムズ・アンソールは1860年ベルギーに生まれました。生家は観光客相手の売店を経営しており、アンソールの母が切り盛りしていました。アンソールの父は数カ国語を話せる教養人だったと言われていますが、仕事らしい仕事についたことはなく、若くして亡くなったと考えられています。この父に似たのか、アンソールも店の手伝いはせずに、屋根裏で絵を描きつづけることとなります。
こんな家庭環境の影響で正規の絵画の教育を受けられなかったため、独特の画風になりました。一時画家たちとの交流を求めたのか、クノップフらが結成した『20人会』に参加しましたが、人間関係がうまくいかずやめてしまい、再び屋根裏で絵を描く生活に戻ります。
彼が最も好んで描いたのは、『仮面』でした。『仮面』は昔から《嘲笑》を表すモチーフであり、彼の才能を理解しようとしないアカデミーに対する《嘲笑》の暗示だったのかもしれません。

ジェイムズ・アンソール『仮面に囲まれた自画像』

当初は全く評価されなかったアンソールでしたが、ムンクと同じく晩年には認められ、現在では表現主義やシュールレアリズムの先駆けとされています。
1949年89歳で亡くなりました。

『世紀末美術』、これでおしまいです。
セガンティーニとルドンは同じ画家でもこんなに画風が変わるという例であげてみました。セガンティーニ、好きな画家のひとりなのですが、象徴主義的な作品は見たことがないので、いつか見てみたいです。ルドンはどちらもみたことありますが、晩年悲しいことになっていたのは知りませんでした。
ムンクとアンソールは死後評価されたゴッホと違い、生前に評価されました。しかし、すでに描けなくなっている画風で評価されるのもそれはそれで辛いような気がします‥。 

次回は《聖書》マガジンを更新する予定です!

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