《世界史》ローマの宿敵ハンニバル
こんにちは。
Ayaです。
前回から間が空いてしまいましたが、ローマ史の続きです。
今日は共和政ローマを苦しめ、かのナポレオンも参考にしたであろう、猛将ハンニバルについてです。
共和政移行からイタリア半島統一
王政から共和政に移行したローマですが、最初に悩まされたのが、まさかの身内問題・身分制度でした。
当初共和政ローマで実権を握っていたのは、パトリキと呼ばれる貴族階級でした。次第に彼らの政治に不満を持つようになったのが、重装歩兵として実際に従軍するプレブス(平民)たちです。パトリキ側も次第に譲歩せざるおえなくなり、プレブスの権利を守る護民官の設置、執政官のひとりをプレブスから選ぶことを規定したリキニウス・セクスティウス法が成立しました。
こうして身分闘争は収束にむかいましたが、ローマはその間にも領土を拡大していき、ついにB.C.272年イタリア半島を統一しました。
半島を統一したものの、ローマの領土拡大は止まりません。そして最大の敵カルタゴとの全面戦争に突入するのです。
ハンニバル・バルカ(B.C.247〜B.C.183)
カルタゴとは現在のチュニジアあたりにあった都市国家で、独占的に地中海貿易を行っていました。海外進出を狙うローマと度々対立していました。なかでも、ローマが苦しめられたのが、ハンニバル・バルカです。
第一次ポエニ戦争で敗れたハンニバルの父は、彼を神殿に連れていき、ローマを生涯の敵とする誓いをたてさせました。父の死後、義兄のもとで育ちます。
義兄が暗殺されると、若干26歳で軍司令官に任命されます。
B.C.218年、歩兵9万・騎兵1万2千・戦象37頭を率いて、ハンニバルはカルタゴ・ノファ(現在のスペイン)を出発しました。
ローマ側もハンニバルの動きを察知したものの、深い森ですぐ彼の軍勢を見失いました。行軍の途中では現地に住むガリア人とも遭遇しましたが、彼らはローマ人から高圧的な支配を受けていたため、ハンニバルは物資を送るなどして懐柔していきます。
実はアルプス越えについての詳しいルートはわかっていません。後世のナポレオンでさえ苦しめられたわけですから、当時の装備から考えても相当過酷な行軍だったと思われます。実際、アルプス越えを生き残りの兵士は歩兵・騎兵あわせて2万6千程度で、戦象などわずか3頭でした。
しかし、まさかアルプス越えをしてくると思ってなかったローマ側は混乱します。こうして、第二次ポエニ戦争、通称ハンニバル戦争が勃発したのです。
カンナエの戦い(B.C.216)
なんとかハンニバルのローマへの進軍を食い止めようとするローマ側。補給を断つ目的で持久戦に持っていこうとしましたが、カルタゴ側は各地で略奪を繰り返したため、ローマ内部でも軍に対する信頼が下がっていきます。
そんなとき、カンナエの戦いが勃発します。ローマ側8万、カルタゴ側5万の戦力差を見て、ローマ側が決戦を挑んだわけですが、ハンニバルの戦略に見事敗れます。V字型のハンニバル軍の陣にローマ側が突っ込み、そのまま包囲されてしまったのです。ほとんどのローマ兵は圧死し、死傷者は6万に及びました。執政官・元老院議員も戦死し、歴史的敗北となったのです。
歴史的大勝利を挙げたハンニバルでしたが、判断ミスを犯します。『この勢いそのままにローマに攻め込むべきだ』という意見を採用せず、カルタゴ本国の意向を優先して元植民地だった南シチリア(カルタゴの植民地だったが、第一次ポエニ戦争でローマに奪われていた)へ進軍を決定したのです。この決断を聞いた彼の部下マハルバルは「あなたは勝利を得ることができるが、それを活用することを知らない」と苦言を呈したといわれています。
プブリウス・スピキオ(B.C.236~B.C.183)
一方のローマ側は歴史的敗北に打ちのめされ、人々は神にすがり、最初の人身御供を行うほど追い詰められていました。
そんななか、人々を鼓舞する人物がいました。彼こそプブリウス・スピキオです。
のちに妻の甥を区別するため、大スピキオと呼ばれるようになるこの人物は、ハンニバルの補給の限界に気が付いていたのです。実際、補給に苦しめられカルタゴ軍は消耗していましたし、ローマの同盟諸市への離脱作戦は成功していませんでした。ローマ側は徐々に体制を立て直します。
そして、B.C208年、再びローマとカルタゴは戦います。ザマの戦いと呼ばれるこの戦いは、カンナエの戦いの役割がそっくり入れ替わったものでした。カルタゴ軍はローマ軍に包囲され、敗北したのです。こうして第二次ポエニ戦争は終結し、カルタゴ側には膨大な賠償金が課されることとなります。
亡命、そして死
戦後のハンニバルはカルタゴの復興と賠償金支払いに全力を尽くします。そのおかげで驚異的な早さで賠償金返済を終えますが、このことがローマの反カルタゴ感情を煽ることとなってしまいました。またハンニバルによる急速な改革はカルタゴ国内にも反ハンニバル派が台頭を許し、彼らは「ハンニバルはセレウコス朝と内通している」と通報しました。身の危険を感じたハンニバルはシリアのセレウコス朝へ亡命しました。
セレウコス朝では軍事顧問として遇されていましたが、すでに国の力は衰えており、ローマの軍門に降ることとなります。
再び追われる身となったハンニバルは各地を放浪し、最期の亡命先ビュテュニア王国にローマ側から引渡しの要求が届いたと知ると、自害しました。
一方のライバル・スピキオもザマの戦いの後、人々の妬みを買って弾劾され、政界から追放されていました。ハンニバルの死からほどなく、失意のなか世を去ったのでした。
最近ふざけた記事ばかり書いているので、久しぶりに疲れました(←おい)
ハンニバルのカンナエの戦いの戦術は、いまだに多くの国の士官学校の授業で取り上げられるようです。すごいですよね~。
戦地で恋愛小説を書いていたといわれるロマンチストなナポレオンのことなので、ハンニバルを超えてやるぞ!という野望もあり、アルプス越えをしたのではないかななんて個人的には思います。でもロバしゃなくてさらに寒さに弱いだろう象をつれていくってね…、さすがに可哀想…。
次回も真面目に(?)に《聖書》マガジンを更新する予定です。早く今年の更新のペースを取り戻したいです(真顔)
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