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《世界史》フランス革命と女性たち

こんにちは。
Ayaです。
フランス革命では大勢の人々が殺されました。なかには女性たちもいました。今日はフランス革命で犠牲になった女性たちについて書きます。

"誠実な友人"ランバル公妃マリー・ルイーズ(1749〜1792)

ランバル公妃本名マリー・ルイーズは1749年サヴォイワ公家に生まれ、ランバル公と結婚しましたが、すぐ夫が亡くなり、未亡人となります。義父とともに慎ましく生活しますが、嫁いできたばかりのマリー・アントワネットに気に入られ、友人となります。
アントワネットが王妃となると、ランバル公妃は王妃家政機関総監に任じられます。しかし生真面目なランバル公妃よりも、享楽的なポリニャック夫人にアントワネットの寵愛が移ります。失寵したランバル公妃は家政総監の任務を全うしていました。アントワネットとランバル公妃の友情は細々と続いていて、アントワネットは彼女を『あの方には憎悪や嫉妬というものがない』と評したと言われています。
革命がはじまると、ポリニャック夫人はすぐ亡命しましたが、ランバル公妃は亡命せずに国王一家を支え続けます。
ランバル公妃は王妃の侍女たちの身辺調査をしたり、自分の部屋を王妃と内通していたミラボーとの密会に使わせたりしていました。ヴァレンヌ逃亡事件の際は知らされておらず地元に戻ってましたが、国王一家がパリへ連れ戻されたと聞くとパリに戻ります。すでにアントワネットの親しい友人はランバル公妃のみとなっており、遺書を認めたうえでの帰京でした。
熱意虚しく国王一家がタンプル塔に幽閉されると、ランバル公妃も引き離されます。九月虐殺の犠牲となる運命でした。
引き立てられたとき、『自由と平等、王と王妃への憎悪を誓え』と言われましたが、『前者については快く承知しますが、後者については誓えません』ときっぱりと拒否しました。民衆に虐殺されたうえ首を落され、タンプル塔のアントワネットにキスさせようと槍に首をつけられました。それを聞いたアントワネットはあまりの衝撃で失神しました。九月虐殺は一種の集団ヒステリーであり、有罪が決まると八つ裂きにされましたが、無罪になると笑顔で迎えられたといいます。多くの女性たちは事前に逃れましたが、ランバル公妃は顔が知れ渡っていて助けられませんでした。

ランバル公妃
アントワネットの親しい友人で同性愛相手と噂されていたが、ポリニャック夫人とは違い、生真面目な人物だった。九月虐殺の犠牲者となる。


"暗殺の天使"シャルロット・コルデー(1788〜1793)

シャルロット・コルデーは1788年ノルマンディー地方に生まれます。生家はコルネイユを先祖に持つ貴族ですが、貧しくシャルロットは修道院に入れられます。シャルロットはおとなしい性格でしたが、ローマ時代の英雄の伝記を好んで読むような少女でした。このまま修道院で過ごすはずでしたが、革命の一環で修道院が閉鎖されてしまいます。一般社会に戻ったシャルロットは政治的活動に関心を持ちます。そんなとき、ジャコバン派に追い出されたジロンド派の議員たちが逃げてきます。ジロンド派の議員たちは、ジャコバン派、特にマラーの批判キャンペーンを行います。マラーは新聞社を経営していて自由に発言する人物で、すでにマラーの権勢が衰えていたこともあり、恰好なスケープゴートでした。この演説に感化されたシャルロットは、マラーを社会を乱す根源と考え、殺害を決意します。
マラー殺害を決意したシャルロットは単身パリへ上京します。マラーの家を訪れますが、マラーの様子を見て殺害を躊躇します。マラーは皮膚病に苦しんでおり、とてもイメージしていた残忍なマラーとは違ったのです。シャルロットは地元に逃げてきているジロンド派の議員を告発する体で訪れており、告発内容を書き留めたマラーが『安心するように。裏切り者はみんな始末する』と言ったことで、殺意を取り戻します。シャルロットは隠し持っていたナイフでマラーを襲い、殺害しました。

ダヴィッド『マラーの死』
マラーの遺体が腐るまで緻密にデッサンし、キリストに見立てている。

殺害後すぐ逮捕され、裁判にかけられます。うら若い美女だったので、人々は共犯者の存在を疑いました。しかし、自供を聞くうち単独犯であるということがわかり、衝撃を与えます。シャルロットは即日処刑されました。しかし、その美貌に魅せられ、自らも処刑されるように彼女を賞賛する詩を発表する男性も現れるなど、いつのまにか『暗殺の天使』と呼ばれるようになりました。

"天上のプリンセス"エリザベート・フィリッピーヌ・ド・フランス(1764〜1794)

エリザベート王女は1764年ルイ16世の末妹として生まれます。姉が嫁に行ってしまったとき、兄嫁のアントワネットが励ましてくれたので、アントワネットを慕うようになります。婚期が来ると様々な縁談がもたらされましたが、兄夫婦から離れたくないという理由で断ります。本人は派手な服装を好まずおしとやかな性格で、『天上のプリンセス』と讃えられました。ヴァレンヌ逃亡事件でも同行し、常に国王一家と行動をともにしました。姪のマリー・テレーズに数学を教えてたりもしていたので、兄に似て理系を得意としていたようです。
アントワネットが処刑されてから半年後、エリザベートも裁判にかけられます。アントワネットのように他国に機密を流したり、豪華な生活を送ったわけでもなく、兄のアルトワ伯に資金を送ったのが犯罪とされたのです。裁判でも毅然とした態度を保ち、裁判官からルイ16世を侮る発言を聞かされると『もし兄が暴君であればあなたがたがその席に座っていませんし、私もこの場にはいなかったでしょう』と反論しました。死刑とされましたが、証拠もなく、もはや王女であったことが有罪とされたのです。アントワネットが処刑されたときよりも、恐怖政治は暴走していました。
エリザベートは一緒に処刑される人々と移送されますが、その中で妊婦を見つけます。当時でも妊婦は刑を遅らせる処置がされていたので、エリザベートはその妊婦に申し出るようにいいました。申し出た妊婦は生き延び無事にこどもも出産しました。出産時には恐怖政治も終わっており、自分の死刑命令書を取り寄せると裁判の前から署名されていたことがわかりました。つまり、エリザベートも裁判の前から処刑の命令が降りていたのでしょう。
エリザベートは処刑の時人々を励まし、讃美歌を歌っていたと言われています。
アントワネットの遺書は彼女宛てに書かれたものでしたが、受け取ったのは、解放されたマリー・テレーズでした。
ルイ17世は虐待された上放置されて病死し、革命後生き残ったのはこのマリー・テレーズのみでした。

エリザベート王女
おとなしい性格だったが、乗馬を愛する活発な一面もあった。もし嫁いでいれば、普通の人生を歩んでいただろう。

"ジロンド派の女王"マノン・ロラン(1754〜1793)

ロラン夫人は1754年プチ・ブルジョワの家庭に生まれます。当時一流の教育を受けますが、貴族階級に受け入れられず、共和主義者となります。1776年ロラン氏と結婚。
革命が始まると、彼女のサロンがジロンド派の中心地となります。彼女自身は政治的な活動はせず、あくまで内助の功という形を保っていましたが、隠然たる影響力の大きさから、『ジロンド派の女王』の異名を受けます。しかし、国王処刑に反対した議員が多かったことからジロンド派の天下は続きませんでした。ロラン夫人は夫や仲間を逃してたあと、逮捕されます。
『ジロンド派の女王』とされていたこともあり、処刑が決定されます。刑場に連行され、『自由よ、汝の名の下でいかに多くの罪が犯されたことか!』という有名な言葉を残して処刑されます。

マノン夫人
彼女のような女性の活躍は『扇子から断頭台へ』と言われた。彼女の刑死を知った夫は亡命先で自殺した。

"最後の愛妾"デュ・バリー伯爵夫人(1743〜1793)

ルイ15世の愛妾デュ・バリー夫人は追い出された後、領地で悠々自適な生活を送ります。彼女のサロンは過去の対立から反アントワネットの牙城となっていました。
革命後イギリスに亡命しましたが、なぜか帰国し逮捕されます。隠していた宝石を取り戻しにきたと言われていますが、理由は明らかになっていません。
ルイ16世には愛妾がおらず、最後の愛妾だったデュ・バリー夫人は死刑となります。多くの人々が粛々と処刑されましたが、断頭台を直視できなかったのは彼女だけでした。実は死刑執行人サムソンは昔彼女と付き合っており、必死に命乞いされましたが、耐えられず、息子に執行させます。サムソンは、『みんなデュ・バリー夫人のように泣き叫び命乞いすればよかったのだ。そうすれば、人々も事の重大さに気がつき、恐怖政治も早く終わっていたのではないか』と記しています。

デュ・バリー夫人
アントワネットの宮廷画家ル・ブランによる肖像画。すでに40代後半となっていたが、美貌は健在だった。

このほかの処刑された女性としては、フェミニズム運動のさきがけとなったオランプ・ド・グージュやデムーランの妻リュシル・デュプレシなどが挙げられます。貴族やブルジョワジーなど反革命勢力だけでなく、革命の刃はロベスピエールらと対立した政治家や一介の庶民にまで向かいました。
ロベスピエールらによる恐怖政治によって、多くの人々が命を奪われましたが、終止符を打ったのも女性でした。

"テルミドールの聖母"テレーズ・カバリュス(1773〜1835)

テレーズ・カバリュスは1773年銀行家の娘として生まれ、年頃になると貴族と結婚します。革命が起きると、夫は国外へ亡命しますが、革命に関心を持った彼女は別行動をとります。ボルドーから逃げる算段でしたが、派遣されていた議員タリアンを誘惑し愛人関係を結びました。これがロベスピエールに知られて逮捕されてしまいます。処刑が近づく中、監獄から愛人タリアンに叱咤激励の手紙を送り、テルミドールのクーデターを決行させます。テルミドールのクーデターでは、ロベスピエール、サン=ジュスト、クートンの三巨頭が処刑されました。これにより、彼女は『テルミドールの聖母』と言われるようになります。
テルミドール以後、タリアン夫人として社交界の華となります。タリアンの勢いがなくなると、有力者バラスに鞍替えしていました。彼女のサロンに若い頃のナポレオンが出入りしており、そこで彼女の友人ジョゼフィーヌと出会います。
晩年は領地で静かに過ごし、『私の若い頃は小説みたいだった』と語ったと言われています。

テレーズ・カバリュス
『テルミドールの聖母』と呼ばれる。彼女の流行らせた古代ローマ風のドレスはナポレオン帝政期のファッションとなる。

フランス革命と女性たち、まとめ終わりました〜。実はランバル公妃とエリザベート王女を取り上げたくて、長く温めていた内容です。
ランバル公妃はポリニャック夫人にかき消されてしまいがちですが、自らの身を賭して国王一家を支え続け、虐殺されてしまいました。一方でアントワネットの勧めとはいえ、すぐ亡命したポリニャック夫人はウィーンで病死します(よりにもよってアントワネットの故郷でと思ってしまうのは私だけでしょうか‥)。
エリザベート王女はアントワネットの話では少ししか取り上げられませんが、裁判中の言動から不利であることをわかっていたのにも関わらず国王一家の側にいたのかなと思います。もし姉のように嫁いだり、ルイ15世の娘たちのように亡命していれば、平和に人生を終えたでしょう。
シャルロット・コルデーやマノン夫人は当時としては珍しく政治的信念で行動した女性です。フランス革命で産声を上げた女性の政治活動ですが、ナポレオン時代で再び封印され、本格的に動き始めるのは第一次世界大戦後でした。
次はナポレオンと女性たちについてまとめたいと思います。

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