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《美術史》スペイン史上最悪の王妃とゴヤ

こんにちは。
Ayaです。
ナポレオンの2度目の流刑によって、彼に王座を奪われた各国王室は自国へ戻りました。しかし、スペイン元国王のカルロス4世夫妻は戻れませんでした。この夫妻とスペインの巨匠ゴヤの関係について今回はまとめます。少し時代を巻き戻して、スペインブルボン家の成立についてからです。

マリア・ルイサ(1751〜1819)

祖父ルイ14世から『よきスペイン人であれ、されどフランス人であることを忘れるな』と送り出されたフェリペ5世が即位したことでスペインブルボン朝は成立しました。このフェリペ5世は全くスペインに馴染もうとせず、息子に譲位したときはフランスに帰国するのではないかと噂されました。生憎息子がなくなり、再び王冠を被りますが、鬱病を発症してました。この鬱病は彼の死後即位した次男にも影響を与え、すぐに亡くなってしまいます。その後即位した末息子カルロス3世は当時の啓蒙思想に感化され、マドリードの再整備やプラド美術館の設立などを手がけます。そんな彼にも悩みがありました。息子カルロス(のちのカルロス4世)の不出来でした。
カルロスは1748年に生まれ、長男の障害のため王太子となっていました。ところがカルロスは正直者の愚鈍な性格だったので、カルロス3世は世継ぎとすることに不安を感じていたのです。そこで、カルロス3世は自分の息子の妻には頭の切れる女性を据え、自分の死後の息子の操縦を任せることにしたのです。こうして選ばれたのが、パルマ公女マリア・ルイサでした。

若い頃のマリア・ルイサ

マリア・ルイサは1751年生まれで、カルロスより年下でしたが、性格がキツく、すぐカルロスを支配するようになります。すでにカルロス3世の王妃は亡くなっていたので、その代わりとしてカルロス3世は彼女を教育します。最初は義父の指摘に耐えていた彼女でしたが、次第に本性を表していき、愛人まで囲います。夫のカルロスは知ってか知らずか『妻が落ち込むので彼女の愛人を呼び戻して欲しい』と父に懇願して、激怒される始末でした。嫁も期待はずれだったカルロス3世は自分の死後は宰相の言う通りにしろという遺言を残して亡くなります。息子カルロスはカルロス4世として即位しますが、すでにマリア・ルイサのいいなりで見事に父の遺言を無視、それまでの宰相をクビにして、妻の愛人ゴトイを重用します。王妃とその愛人の関係は周知の事実で、特に長男フェルナンドは『淫売の亭主と淫売、その淫売のヒモ』と痛烈に皮肉っていました。しかし、カルロス4世としては自分の不向きな政治を代行してくれ、趣味の狩猟や靴づくりに没頭できる生活でした。マリア・ルイサとしたら、権力欲の強いゴトイは自分が必要でしたし、彼女は自分達三人のことを『地上の三位一体』と呼んでいました。
そんなカルロス4世の宮廷を描いたのが、ゴヤです。

フランシスコ・デ・ゴヤ(1746〜1828)

ゴヤは1746年にサラゴサの近郊で生まれます。彼は若い頃から上昇志向が高く、先輩の妹と結婚して、その手引きで宮廷入りします。念願の宮廷画家となったゴヤでしたが、40歳の時大病の影響で全聾となります。全聾となっても制作意欲はみなぎっており、主席画家となるためのカルロス4世の家族の肖像画にも全力で取り組みました。

ゴヤ『カルロス4世の家族』
尊敬する先達ベラスケスの『ラス・メニーナス』をオマージュした意欲作だったが、あまりにも美化しなさすぎて人々の顰蹙を買った。

しかし、公式肖像画でありながら、国王の家族には神聖さを感じさせず、『富籤に当たったパン屋のようだ』と酷評されました。ゴヤはそのまま主席宮廷画家となりましたが、さすがにマリア・ルイサが気に入らなかったらしく、この作品はしまわれてしまいました(カルロス4世の感想は伝えられていません)
そんななか、ナポレオンが攻めてきます。最初はゴトイがなんとか対策していましたが、国内の反乱で国を追われ、息子フェルディナンドの手引きでナポレオンの前に引き出されます。ナポレオンはカルロス4世にどうやって国を治めていたのか聞きましたが、彼は『朝から狩りに出掛けて、夜の寝る前にゴトイからの報告を受けてました』と答え、ナポレオンを唖然とさせました。成り上がり者ナポレオンにとっては、王家に生まれついた彼は敵だったのでしょうが、あまりにも俗世離れしていて、呆れるを通り越して感心したようです。一方マリア・ルイサは自分達を引き渡した長男フェルナンドを『この私生児!』と罵倒しましたが、フェルナンドは自分が王座に就くつもりでした。それも虚しく、ナポレオンの命令でナポレオンの兄ジョゼフがホセ1世として即位して、カルロス4世夫妻は亡命、フェルナンドはそのまま幽閉の身となります。スペインの国民たちはフランス人の王に支配されるのはごめんと、必死に抵抗します(始祖フェリペ5世もフランス人でしたが)。この動きは内乱となって、その惨劇をゴヤが描いています。全聾だからか恐れずに戦線まで訪れ、発表する見込みもない絵を描き続けます。フランス軍は民間人も虐殺しており、彼の作品は百年後のピカソの『ゲルニカ』を思わせるような戦争の惨禍を伝えています。

『マドリード、1808年5月3日』
実際に起きた庶民の虐殺事件を題材としている。白い服の男はポーズと手に聖痕に似た傷があることからキリストを暗示しているといわれている。のちにこの作品に影響を受けて、マネが『皇帝マクシミリアンの処刑』を描いた。

ゴヤは宮廷画家でしたし、好色なゴトイには『裸のマハ』を描いておもねっていた人物でした。ゴトイの亡命後の家宅捜索で『裸のマハ』が見つかり、ゴヤは異端審問に召喚されてしまいます。当時他国では異端審問は廃止や下火になっていましたが、スペインでは権勢が落ちたとはいっても組織化されており、召喚されるだけでキモを冷やしたことでしょう。なんとか罪を免れましたが、イヤになったらしく『聾者の家』で『黒い絵』シリーズを描きまくり、1824年にはボルドーに亡命してしまいました。その4年後亡くなります。82歳でした。

『裸のマハ』
ゴトイの愛人の裸婦像で、陰毛まで描いていたので問題となった。普段は同じ構図の『着衣のマハ』の裏に飾られ、隠しボタンを押すとひっくり返り見えるようになっていた。



一方、国を追われたカルロス4世夫妻でしたが、亡命先イタリアでゴトイと再会し、一緒に生活を送ります。ナポレオンの失脚後は帰国も検討したようですが、スペインに迎えられたのは息子のフェルナンドでした。亡命生活といっても裕福で、カルロス4世は狩猟を楽しめましたし、マリア・ルイサもすっかりおばあさんになっていて、ゴトイの子どもを可愛がっていました。1819年愛人ゴトイに看取られながら、マリア・ルイサは亡くなりました。享年61歳。半年後カルロス4世も亡くなりましたが、ゴトイはその後30年以上も長生きしました。

ゴヤ『平和公マヌエル・ド・ゴトイ』
戦争終結記念でゴヤに描かせた作品。若い頃は美男で知られたが、壮年期には肥満になっていた。正妻の死後『裸のマハ』のモデルの愛人と再婚し、死ぬまで連れ添った。

ほぼマリー・アントワネットと同時代の夫妻ですが、フランス革命で断頭台の露と消えたアントワネット夫妻とは違い、亡命先で天寿を全うしたマリア・ルイサ夫妻。現在のスペイン王室まで、その血は受け継がれています。

スペイン史上最悪の王妃とゴヤ、まとめ終わりました。アントワネットと同時代を生きたマリア・ルイサでしたが、亡命先で天寿を全うしたことを考えると、亡命に成功していればアントワネットも穏やかな死を迎えられたのではないかと思いました。
ゴヤの作品について知ったのは2006年公開の映画『宮廷画家ゴヤは見た』でした。『ブーリン家の姉妹』で好きになったナタリー・ポートマンが出てたのでたまたま見たのですが、カルロス4世がフランス革命のルイ16世の処刑を知りショックを受けるシーンが印象に残りました。当時はルイ16世とカルロス4世が親戚ということも知りませんでしたし、特権階級の人々にとって家が第一で国はそんなに重要ではなかったということにおどろきました。カルロス4世の宮廷ではフランス語が使用されており、スペイン風を守ったゴヤのパトロン・アルバ公爵夫人は煙たがられていました。我々が知っている国民国家という概念自体、ナポレオンの後に生まれたものだったのです。
ナポレオン関連、次回で最終回です。非業の死を遂げた人物の娘についてです!

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