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《美術史》ミケランジェロ・ブオナローティ

こんにちは。
Ayaです。
今日は『神のごとき』と讃えられたミケランジェロについてまとめます。

ミケランジェロ・ブオナローティ(1475〜1564)

ミケランジェロは1475年フィレンツェに生まれました。ミケランジェロの実家は銀行家でしたが、メディチ家に破れ、父は共和国の臨時職員として生計を立てていました。6歳の時母が亡くなり、父は石工の一家とともに農園を経営することになります。ミケランジェロは後年この石工の一家と過ごしたことが、自らの彫刻の原点になったとヴァザーリに語っています。
13歳のときギルダンライオに弟子入りし、翌年には一人前の画家と認められます。これは異例のことでした。
1498年には師匠の推薦でメディチ家に派遣されます。当時の当主はロレンツォ・デ・メディチで、アカデミーや人文学のサロンを主催していました。ミケランジェロはアカデミーで彫刻を学びながら、サロンの錚々たる面々から教養を吸収します。ロレンツォ・メディチが亡くなると、メディチ家の権勢が衰え政情が不安定になったので、ミケランジェロはローマに移ります。
1498年から代表作『ピエタ』に取り組みます。この制作は1500年までかかりましたが、人々から絶賛を浴びます。彼自身もこの出来栄えに満足し、唯一自らの署名を入れました。

『ピエタ』
ミケランジェロの代表作。『マリアが若すぎる』との批判を浴びたが、『マリアはキリスト母なのだから老けるわけがない』と言い返した。

故郷フィレンツェの政情も安定してきたため帰国し、1504年には『ダビデ像』を完成させます。この時像の設置場所についての議論が行われ、その委員にレオナルド・ダ・ヴィンチも招かれています。同年レオナルドとミケランジェロはヴェッキオ宮殿の壁画の注文を受けることもあり、後世からは2人をライバルと認識するようになります。(この壁画は2人とも完成させられませんでした)

『ダビデ像』
現在もともと設置されていた市庁舎前にはレプリカが置かれ、実物はアカデミア美術館に展示されている。

1505年にはユリウス2世に霊廟制作を命じられローマに戻りますが、その制作途中に『アダムの創造』を含むシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を命じられます。彼は彫刻家を自認していてフレスコ画に苦手意識があり、この依頼を不快に思いましたが、4年をかけて完成させます。

システィーナ礼拝堂の天井画
『創世記』のエピソードを9シーンに分けて描き、周りに7人の預言者と5人の巫女を配している。

1527年メディチ家が再び追放され共和国派が彼を要塞建築監督に任じます。長年メディチ家の庇護を受けていた彼もフィレンツェへの故郷愛から任命を受けました。しかし、再びメディチ家が帰国すると苛烈な政治を行ったため、1530年なかばフィレンツェを去ります。
1541年から制作を開始していた『最後の審判』は、1547年までかかりました。1370cm✖️1200cmにも及ぶ大作で、さすがの彼も疲労しました。

『最後の晩餐』
あまりにも局部が描かれたため、後年隠された。批判した儀典長を地獄の船守カロンとして描いたことは有名。
『最後の晩餐』の一部
皮膚を剥がされ殉教したバルトロメイに自らを重ね、自画像を描いた。

その後もサン・ピエトロ大聖堂の改築の設計など大事業や病に倒れる前日まで制作に取り組むなど旺盛な制作意欲を持ち続け、1564年死去。享年88歳。

『ロンダニーニのピエタ』
ミケランジェロの遺作。病に倒れる前日まで鑿を振るった。

ミケランジェロ、まとめ終わりました〜。私のなかでは彼は彫刻家なので、珍しく彫刻も取り上げました。

最後に彼の女性関係について。レオナルドと同じく同性愛的傾向があったミケランジェロですが、1538年ごろにヴィットリア・コロンナという女性に出会います。彼女は貴族の教養ある未亡人で、2人はソネットを交換する仲でした。しだいに友人関係から恋愛関係に至り、1547年ヴィクトリアの死まで続きます。彼女の手にキスしたことはあったけれど、頬にキスをしなかったと後悔していたらしいミケランジェロ。とても純朴な少年(70歳過ぎですが)という感じがして、気難しい芸術家というイメージと真逆ですね笑

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