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《世界史》ジョージ6世とチャーチル

こんにちは。
Ayaです。
兄の『王冠をかけた恋』で急遽即位することとなったジョージ6世。彼はウェストン・チャーチルとともに第二次世界大戦を切り抜けることとなります。

ジョージ6世(1895〜1952)

ジョージ6世は1895年ジョージ5世と王妃メアリーの次男として誕生します。誕生日がアルバート公の命日だったため、ヴィクトリア女王の覚えがよくなく、アルバートと名付けられます。母方の祖母はこのことが気に入らず、『この子はジョージと呼ばれるようになってほしい』と語っていました。
幼少時から吃音に悩まされたため、兄とは正反対の内向的な性格に育ちました。成長すると、海軍に仕官します。
当時他国の王族との結婚が望まれていましたが、キングスホーン伯の娘エリザベスとの結婚を望みました。エリザベスは2度断っていますが、1923年二人は結婚します。この結婚は新時代の到来を予感させると人々から歓迎されました。

結婚当初のジョージ6世夫妻
妃エリザベスは夫に望まぬ王位継承をさせたとして、ウォリスを恨んでいた。

この夫妻にはエリザベスとマーガレットが誕生し、平穏な生活を送っていくはずでした。
しかし、兄エドワードの女性関係で風向きが変わります。エドワードと対立していた父ジョージ5世は、晩年には『自分の死後、王冠はバーディ(ジョージ6世)とリリベッド(エリザベス2世)に渡るよう願う』と公言するほどでした。
吃音と向き合う必要に駆られたジョージ6世はセラピストのライオネル・ローグ氏の治療を受け、克服します。
1936年に父ジョージ5世が亡くなり、兄エドワード8世が即位して、ジョージは推定王位継承者となります。ジョージや廷臣たちはなんども説得しましたが、エドワード8世の決意はかたく、ウォリスとの結婚のために退位します。代わりに王位につくこととなったジョージは母メアリーに泣きついたと言われています。
実際、ふさわしいとされていたのは、末弟ケント公ジョージでした。彼には唯一息子がいましたし、長兄エドワードに似て社交的な性格だったからでした。ジョージとしては投げ出したい思いだったでしょう。

ジョージ5世の四男 ケイト公ジョージ
王族として初めて空軍につとめ、第二次世界大戦中戦死する。


国王として最初に向き合ったのは、兄エドワード8世への待遇についてでした。エドワードにはウィンザー公爵という敬称を与えますが、妻や子どもへの相続は認めないという結論に至りました。
戴冠式は翌年に挙行されました。兄エドワードが被るはずだった王冠を被ります。前例では戴冠式への参列が許されない母メアリーも参列しています。王室内の意見が一致しているという意味の出席でした。日本からは昭和天皇の弟秩父宮夫妻が出席し、外国王室筆頭として扱われましたが、これは当時接近していたドイツへの牽制でした。さらには国王として初の訪米も行いますが、ヒトラーの暴走は止められませんでした。ウェンストン・チャーチルとともに第二次世界大戦を戦い抜くこととなります。

戴冠式後のジョージ6世一家


ウェンストン・チャーチル(1874〜1965)

チャーチルは1874年第7代マールバラ公爵とその妻ジャネットの間に生まれました。母ジャネットはアメリカの資産家の娘で、エドワード8世やビスマルクとも関係を持っていたと噂される女性でした。当時としては珍しく自らチャーチルの養育に関わり、彼の人格形成に影響を与えたといわれています。

チャーチルの母 ジャネット
夫の死後、チャーチルと同じ年の男性と再婚するなど話題の絶えない生涯を送った。


学校での成績はよくなく、親のコネで陸軍士官学校にもぐりこみます。士官学校を卒業すると、女王付きの騎兵隊に入隊します。

女王付き騎兵隊に配属されたときのチャーチル

父が亡くなり、家督をつぎますが、すでに家計は傾いていて、苦労します。騎兵隊は馬の飼育でお金がかかるので、陸軍を退役し、父と同じ政治家を目指します。
26歳で保守党の庶民院議員として初当選しました。保守党幹部と対立することとなり、自由党に転籍、また保守党に復党と波乱の政治家生活を送りますが、大臣などの要職を歴任します。
33歳の時、クレメンティー・ホージアンと結婚、一男四女をもうけます。

第二次世界大戦(1939〜1945)

ミュンヘン会談でヒトラーと妥協したチェンバレン首相でしたが、見事に裏切られます。ドイツのポーランド侵攻で、第二次世界大戦が勃発します。
敗戦が続き、責任を追及されたチェンバレン首相は退陣、チャーチルが首相に就任します。
その後フランスが陥落し、ロンドンはドイツの空襲に襲われます。ジョージ6世は疎開を勧められても断り、夫妻ともどもロンドンにとどまります。宮殿近くに爆弾が落ちても動じず、エリザベス王妃は『これでイーストランド(ロンドンの下町)に顔向けできる』と語りました。
ジョージ6世は必ず週に一度4時間チャーチルとともに過ごすようになり、盟友となります。
1945年ドイツ・日本の降伏によって、第二次世界大戦は終結します。国民とともに乗り切ったジョージ6世の人気は絶大なものとなりました。

チャーチルとジョージ6世一家

しかし、植民地各地が独立したため、イギリスは大英帝国の威光を失ってしまいます。ジョージ6世は新設されたイギリス連邦の盟主として再出発します。人種差別政策をとっていた南アフリカに訪問したときは、差別政策を継続する政府関係者への怒りをあらわにしてます。
第二次世界大戦中の心労がたたり、持病が悪化していたジョージ6世。1959年ケニア訪問のため旅立つエリザベス夫妻を見送った1週間後、崩御します。
享年56歳。
チャーチルは第二次世界大戦後、選挙に敗れ退陣を余儀なくされます。この出来事はスターリンの民主主義への猜疑心を煽ったといわれています。共産主義アレルギーは生涯治らず、有名な『鉄のカーテン』演説をしています。1965年死去、享年90歳。
ジョージ6世妃エリザベスは長女エリザベス2世を支え続けましたが、次女マーガレットの死に打ちひしがれ、2002年亡くなりました。享年101歳で、現在でも国王の配偶者として最長寿の記録です。
ジョージ6世の崩御によって、長女エリザベスが即位します。現在在位しているエリザベス2世です。

少女時代のエリザベス2世と両親

『英国のスピーチ』で取り上げられたジョージ6世についてまとめました!兄エドワードの尻拭いで即位したジョージ6世。王室の人気を取り戻し、娘エリザベスに引き継ぎます。
次回はエリザベス2世をとりあげます。夫エディンバラ公フィリップや妹マーガレット、そしてダイアナ元皇太子妃など取り上げたい人がたくさん!まとめるの、頑張ります!

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