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《世界史》愛国王ジョージ3世と子どもたち

こんにちは。
Ayaです。
今回はジョージ3世と子どもについてです。この王はハノーファー家の鉄則(?)と遺伝病に苦しめられました。

愛国王ジョージ3世(1738〜1820)

ジョージ3世は1738年フレデリックルイスとその妻オーガスタの間に生まれました。父フレデリックルイスは有名な放蕩息子でしたので、母オーガスタは息子を父のようにならないように厳しく育てました。
祖父ジョージ2世の死によって、1760年即位します。ジョージ3世には誇りがありました。父まではみんなハノーファー育ちでしたが、自分はイギリス生まれイギリス育ちで、イギリスに関心の薄かった父までの世代とは違うという誇りでした。なので『愛国王』と呼ばれるわけですが、その誇りで政治的関心が強く、廷臣たちとしては責任内閣制が定着していたのでありがた迷惑でした。また女性問題の多い一家でしたので、ジョージ3世は貴族の娘と恋愛関係でしたが別れ、シャーロット・オブ・メクレンバーク=ストレリックと結婚しました。このシャーロットを愛し続け、九男六女をもうけました。ジョージ3世にある異変が訪れるまで、幸せな家庭生活を送っていました。

ジョージ3世
農民とも親しく会話したので、『農民王』と親しまれていた。


ジョージ3世妃 シャーロット
夫と仲睦まじく、植物を愛し、キュー植物園の基礎を築いた。

遺伝病ポルフィリン症

その異変が訪れたのは、ジョージ3世が20代後半のことでした。いつも敬虔な彼が突然罵詈雑言を叫び、床で転げ回ったのです。廷臣たちがびっくりしておろおろするうちに、すぐいつもの彼に戻りましたが、彼は異変の時の記憶が全くありませんでした。
この異変はポルフィリン症という遺伝病のためでした。ポルフィリン病はタンパク質の大量発生のために、精神症状や神経症状を引き起こすものです。しかし、当時はなんの知識もありませんでしたので、悪魔憑きにみえたのでしょう。木にくくりつけられたり、瀉血をして死にかけたり強引すぎる治療が行われました。
この症状は政治問題と家庭問題が重なると、特に悪化しました。ジョージ3世の治世はアメリカ独立、フランス革命、ナポレオンの台頭など波瀾万丈でした。しかし、それ以上に人々は彼の家庭問題に同情しました。何度か体調の悪化良化を繰り返しますが、最愛の娘を秘密結婚の上亡くしてしまい、立ち直れなくなりました。その後9年ぐらい幽閉され、1820年崩御しました。享年81歳。

問題児ばかりの家庭生活

ジョージ3世もシャーロットも生真面目な性格で、子どもたちの教育方針は厳しいモノでした。反抗する子どもたちがほとんどで、その反抗具合もなみなみではなりませんでした。順番に見ていきましょう。
(1)ジョージ4世(1762〜1830)
期待の跡取りとして生まれ高い教養を身につけますが、酒・女・賭博にうつつをぬかします。21歳の頃カトリックで未亡人と秘密結婚して、父から大目玉をくらい廃嫡にされそうになります。目をはなすと何をしだすかわからないとのことで、彼の借財を弁済する代わりにキャロライン・オブ・ブランズウックと結婚させます。ジョージ4世はこの正妃を嫌い抜いたので、一女をもうけると女遊びを再開します。キャロラインも当てつけで愛人をつくりました。父のジョージ3世の病気が悪化すると、摂政として政務を代行していました。キャロラインはイギリスに居づらくなり、ヨーロッパへ放浪の旅にでます。父ジョージ3世がなくなると即位しますが、まだ正式な王妃だったキャロラインに戴冠させないどころか即位式に参加させず、彼女は失意のなか亡くなります。この一件でもともと悪かった評判が地に落ちました。ナポレオンから逃れてきたルイ18世家族や貴族を支援したり、文化事業に力をいれたりしましたが、人気は戻らず。1830年崩御、訃報で『我が国で一番ゲスイ王』と書かれてしまう始末でした。享年67歳。キャロラインとの娘は先に亡くなっていたので、弟のウィリアム4世が即位します。

ジョージ4世
すでに50代での即位で、この肖像画は理想型に描かれているらしい。


(2)フレデリック(1784〜1827)
陸軍に仕官し、ナポレオンのフランス軍と戦いますが、軍事的才能に乏しく、敗北しました。彼は結婚していましたが夫婦仲がよくなく、女優と愛人関係でした。1804年この女優が彼の名前を使って詐欺をしていたことが発覚。このスキャンダルで陸軍最高司令官職を辞することとなります。兄より先に1827年薨去。

次男 フレデリック(ヨーク・オールバニ公)


(3)ウィリアム4世(1765〜1837)
海軍に仕官して、訓練生時代は一般の訓練生と同じ訓練内容を弱音も吐かず受けていました。ナポレオンを撃退したネルソン提督と親しく、アメリカには王家の人間では初めて上陸していました。
元女優のドロシー・ジョーダンと20年以上事実婚状態で、10人の庶子をもうけていました。ドロシーと別れて一念発起して、1818年ザクセン=マイセン公女アデレートと結婚しました。アデレートは2女をもうけますが、いずれも夭折してしまいます。庶子の息子たちとは仲が良くありませんでしたが、娘たちとは終世良好な関係でした。兄の死後即位しますが、すでに高齢だったこともあり、1837年崩御。享年71歳。

三男 ウィリアム4世
フリーメイソンのメンバーだったらしい。
ウィリアム4世妃 アデラード
針仕事を好む心優しい女性で、夫の庶子たちや姪のヴィクトリアを可愛がった。ヴィクトリアの即位後、王太后となる。

(3)エドワード(1767〜1820)
陸軍に仕官していましたが、残酷な体罰を好み、反乱を起こされてクビになってしまいます。27年間フランス人女性と事実婚状態でしたが、長兄の即位によって正式な結婚をするように働きかけられます。まだフランス人女性に未練があったエドワードでしたが、政府に莫大な借金を返済してもらえると知ると、女性と別れ、ライニンゲン侯爵未亡人のヴィクトリアと結婚。翌年待望のヴィクトリアをもうけますが、娘が生後8ヶ月の時に亡くなります。享年52歳。

三男 エドワード
彼と妻どちらも高齢による出産だった為、娘ヴィクトリアの子孫に影響を及ぼす。

(4)エルンスト・アウグスト(1777〜1851)
兄弟の中でも抜きん出て素行が悪く、常軌を逸していました。些細なことで従僕を殴り殺したり、強姦未遂を繰り返していました。妹のソフィアとは近親相姦の関係と噂されましたが、真相は謎。
ヴィクトリア女王が即位した際は、ハノーファー王位はサリカ法で彼女は継承できないので、生き残りで最年長の叔父であるエルンスト・アウグストが継承しました。王になってすぐ反動的な政策を行ったため、人々から反感を買います。それに諫言したグリム兄弟ら教授陣を罷免しています。1851年崩御。享年80歳。

四男 エルンスト・アウグスト(カンバーランド公)


(5)オーガスタス・フレデリック(1773〜1843)
喘息持ちのため、兄弟たちのように軍務にはつけませんでした。イタリア旅行中に勝手に結婚して、連れ戻されています。2回目の結婚も王の同意がなかったため私通とされていましたが、姪のヴィクトリアのはからいで後妻に爵位が与えられています。
兄王たちの存命中から文化事業を担当していて、ヴィクトリアが一番好んだ叔父でした。ヴィクトリアの結婚式では父親の代わりにバージンロードを一緒に歩いています。1843年薨去。享年70歳。

五男 オーガスタス・フレデリック(サセックス公)

(6)アドルファス(1771〜1850)
兄たちを見てきたためか、一番まとも。兄エルンスト・アウグストが即位する前はハノーファー副王として現地で統治をおこなっており、評判も良かったみたいです。イギリスに帰国後、大英博物館理事をつとめていました。1850年薨去。享年76歳。

六男 アドルファス(ケンブリッジ公)

男子たちは以上となります。女子たちでは普通に結婚した者もいましたが、相手が見つからず独身だった者、勝手に結婚した者、兄と近親相姦を噂された者などなかなかです。生真面目なジョージ3世にとって苦痛の連続だったでしょう。シャーロットも夫の看病に疲れ果ててました。
勿論、ジョージ3世の精神状態は隠されました。なので、国民のイメージは愛国王のまま残ることができました。広大なアメリカは失ってしまいましたが、ナポレオンには親子2代で勝ちました。
短い彼の息子たちの治世を経て、1837年ヴィクトリアが王位につきました。

今回はここまでとなります。息子と対立するのはハノーファー家の鉄則ですが、ほとんどの息子がグレてしまって、可哀想になってきます。当時は評価の高かったジョージ3世でしたが、アメリカの独立を招いたので、今は評価が低いようです。次はヴィクトリア女王とその子どもたちです。

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