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《世界史》七月革命とマリー・テレーズ

こんにちは。
Ayaです。
ナポレオンの失脚後、ルイ16世の弟プロヴァンス伯がルイ18世として即位します。その王族メンバーにはマリー・アントワネットの娘マリー・テレーズがいました。

マリー・テレーズ(1778〜1851)

マリー・テレーズは1778年ルイ16世とマリー・アントワネットの第一子として生まれます。第一王女の称号である『マダム・ロワイヤル』として愛されていました。我儘な性格でしたが、幼い時から苦労しており、ヴァレンヌ逃亡事件の際はすでに事態を理解していたと言われています。
テンプル塔では父母と叔母を処刑され、弟とは引き離されて、一人で2年近く幽閉されていました。聖書と叔母が残した編み物が唯一の慰めでした。階下には弟のルイ17世が幽閉されており、その泣き声に心を痛めて、弟の処遇改善を求めましたが、亡くなってしまいました。ロベスピエールの処刑後は少しは待遇が良くなり、使用人を与えられますが、同情した彼女から母と叔母の刑死を知らされます。長い間一人で生活していたため、発声異常に亡くなるまで悩まされました。タンプル塔に幽閉されている可哀想な王女として有名になっており、父の元廷臣が塔の外から歌を歌って元気づけました
1795年従兄のフランツ1世によって解放され、ウィーンに送られます。フランツ1世は自分の親戚と結婚させるつもりでしたが、彼女はブルボン家の叔父の勧める縁談を受け入れます。結婚相手は父の末弟アルトワ伯の息子アングレーム公でした。この結婚のため、亡命宮廷のあったロシアのクルーアントに向かいました。叔父のプロヴァンス伯は彼女の両親の結婚指輪を用意しており、彼女は泣いて喜びました。夫のアングレーム公とは政治信条は異なりましたが、仲は良かったようです。
貴族社会でも同情されていて、母の愛人フェルゼン伯は彼女ために母が残していた財産を取り戻す活動をしていました。マリー・テレーズはブルボン家復活や対ナポレオン包囲網のために尽力し、叔父2人からも頼りにされる存在でした。敵ナポレオンは彼女を『ブルボン家唯一の男』と畏怖していました。文通友達のプロイセン王妃からは夫婦2人だけなら受け入れると言われましたが、『叔父を見捨てられない』と断りました。クルーアントを追い出された一行はイギリスへ逃れ、歓待されました。この時彼女は妊娠していましたが、残念ながら流産してしまいます。
1814年ナポレオンの失脚によって、プロヴァンス伯がルイ18世となって、彼女もパリに向かいます。彼女はナポレオン以後の新興貴族を嫌っていました。古から仕えていてた母の侍女頭だったカンパン夫人もナポレオンの下で女学校校長を務めていたため、冷遇されました。彼女が最も嫌ったのは、父の処刑に賛成したオルレアン公(本人はその後刑死)で、その息子のフィリップとは必要最低限しか会いませんでした。
ナポレオンの百日天下の際も亡命し、彼がセント=ヘレナ島に流されると戻ってきます。彼女は王権神授説を信じており、義父とともに強硬派で知られていました。叔父ルイ18世は共和派と妥協することもあり、たびたび対立するようになります。そんなとき、夫の弟ベリー公が共和派のテロで亡くなります。そのときベリー公夫人は妊娠していて子供を産みますが、子どもに感心を持たなかったため、マリー・ルイーズが養育します。この子どもを養育するため、母のプチ・トリアノンのような場所を求めて、パリの近郊に邸宅を構えました。母のようにみずから牛乳を絞って楽しむのが、唯一の楽しみでした。
1824年ルイ18世が亡くなり、アルトワ伯がシャルル10世として即位し、マリー・ルイーズは王太子妃となりました。母の教訓で質素倹約な生活を送り、おしゃれなどには関心を持たなかったのですが、叔父2人を助けた彼女は『現代のアンティゴネー』と呼ばれました。一方で母のように慈善活動に精を出しました。しかし、シャルル10世は強硬な政治体勢のため国民から嫌われ、反乱で再び退位させられ、マリー・テレーズも一緒に亡命します。いわゆる七月革命です。亡命先のオーストリアで義父と夫を見送ったあと、1851年亡くなりました。享年72歳。アントワネットの子どもで唯一天寿を全うしましたが、子どもがいなかったため、アントワネットの血筋は彼女で絶えます。

マリー・テレーズ
死んだ弟を名乗る人物やタンプル塔で幽閉されていたときに看守に強姦されて生まれた子を名乗る人物(もちろん嘘)が現れるなど悩まされた。


シャルル10世が追放された七月革命はドラクロワの『民衆を導く自由の女神』で知られていますが、王政は維持され、オルレアン公フィリップが即位します。オルレアン公フィリップはその後18年間立憲君主制の王として支配しますが、再び革命を起こされて追放されます(二月革命)。これでまたフランスは共和制に戻りますが、ナポレオンの甥ナポレオン3世によって第二帝政になるという波乱の政治情勢となります。それについては次の機会としたいと思います。

七月革命とマリー・テレーズ、書き終わりました。帰国当初彼女は全く笑わなかったので、『復讐のために戻ってきた王女』と言われていました。母のように贅沢はしませんでしたが、強硬派の中心と見做されて国民からは嫌われていたようです。とはいえ、処刑されたアントワネットとしては彼女だけが天寿を全うしてくれたので、嬉しかったでしょう。子どもに恵まれなかった彼女ですが、夫の甥や姪を可愛がって育てて、贅沢の罪深さを説いたそうです。この教えはアントワネットから受け継いだものでした。
マリー・アントワネットとナポレオンのシリーズはこれで終わります。8回にも渡りましたが、読んでいただいてありがとうございました。次回からはハノーヴァー朝についてまとめようと思います。

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