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《世界史》ヒトラーの政権掌握

こんにちは。
Ayaです。
今日から5回に分けてヒトラーとナチスについてまとめようと思います。初回はヒトラーが政権を掌握するまでです。

アドルフ・ヒトラー(1889〜1945)

アドルフ・ヒトラーは1889年オーストリアのブラヴナウに生まれます。父は徴税人でしたが私生児として生まれたので、後年ユダヤ人ではと噂されましたが、現在は否定されています。
成長すると画家を目指し、ウィーンに移住しますが、芽が出ず、断念します。この芸術への渇望が、のちのナチスの美術品掠奪につながりました。

ヒトラーの作品

1914年第一次世界大戦が始まると、ヒトラーも徴兵をうけ、伝令兵として従軍します。激戦と知られるソンムの戦いでも負傷していましたが、1918年マスタードガスによって一時的に失明に陥り、野戦病院に入院します。この入院生活中に敗戦を迎え、政界進出を決めたと言われています。
敗戦後はバイエルンに戻り、軍の委託を受けて共産主義グループに潜入、情報を盗み出す活動をしていました。後日の共産主義への嫌悪はこのときに基礎付けられたと思われます。共産主義グループから潜入対象をドイツ労働者党に変更されます。ドイツ労働者党の創始者ドレクスラーに気に入られたことと、ヒトラー本人が政治活動にのめり込んでいき、スパイを離職、政治活動専従になります。この頃、後に突撃隊を率いるレームと出会います。次第に過激な演説で知られるようになり、党首ドレクスラーを追い出します。レームやルドルフ・ヘスとともに、1920年国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に改名します。翌年には党の武力組織・突撃隊(SA)を創設し、イタリアのムッソリーニに倣いナチス式敬礼を取り入れます。このころから、一部の支持者から、『総統』と呼ばれるようになります。

ルドルフ・ヘス
レーム粛清以後、寵愛を失う。第二次世界大戦開戦直後、イギリスに亡命。戦後はニュルンベルグ裁判にかけられ、1987年獄中死。

ヒトラーが党内権力を把握したころの支持者層は労働者階級が多く、元ユンカーなど上流階級からは奇異の目で見られていました。この頃上流階級とのコネクションを獲得し、紳士的な話し方を身につけました。
さて、自らの運動が勢いづいてきたと判断したヒトラーはムッソリーニのローマ進軍を真似てベルリン進軍を画策します。バイエルン州総督を担ぎ上げるつもりでしたが、本人に逃げられ失敗に終わります。すでに計画は警察に伝わっており、自暴自棄になって一揆を起こし、逮捕されます。いわゆるミュンヘン一揆です。
逮捕された直後は意気消沈していたヒトラーですが気力を取り戻し、法廷闘争を開始します。鮮やかな弁舌は人気を博しファンが押し寄せるほどでした。
裁判所も同情的になり、禁錮5年の判決を受けます。刑務所内でも口述筆記が許される特別待遇でした。このときに執筆したのが、有名な『我が闘争』です。結局すぐ釈放され、バイエルン地方での人気を確実なものとします。

『我が闘争』の初版

ヒトラー逮捕時解散させられた党も復活させ、総選挙に出馬しましたが、あまりさえない結果で終わりました。
そんな頃、世界恐慌の波がドイツに到達します。莫大な賠償金を払いながら復興をしていたドイツ経済
が崩壊します。政府への不信が広がり、ナチ党は共産党とももに党勢を拡大します。共産党が政権を得るとロシア革命の二の舞になると危惧した富裕者層や保守層の支持を獲得していきます。
ナチスの勢いを取り込もうとした保守派はヒトラーを首相に推薦します。1933年推薦を受けてヒンデンブルク大統領はヒトラーを首相に任命されます。いわゆるヒトラー内閣の成立です。
しかし、この内閣の実情はヒトラーを含めてナチ党員は3名しかおらず、保守派による傀儡でした。勿論ヒトラーの求めているものではありませんでした。実権を奪うため、着々と準備を進めていきます。
まず標的にされたのは対立していた共産党でした。2月27日国会議事堂が火事になり全焼すると、その容疑を共産党に向けます。ヒンデンブルク大統領に共産党員を逮捕状なしに逮捕できる法案にサインさせ、共産党は実質上壊滅しました。

ドイツ国会議事堂放火事件
当時からナチ党員による放火と噂されたが、真相は謎。

3月24日には全権委任法を成立させます。ナチ党のみでは成立は不可能でしたが、突撃隊など支持者が国会内に押し寄せ、他の政党の議員を賛成を投じざるをえない状況に追い込んだのです。この法律で当時先端的だったヴァイマール憲法は形骸化され、どんな法律でも成立させられることになったのです。
7月14日にはナチ党以外の政党を解散させることにも成功します。ヒトラーの暴走は誰にも止められなくなっていたのです。
このように政治的自由が剥奪されていったドイツ国民ですが、歓迎していました。失業対策でアウトバーンの整備などに取り組み、経済状態が驚異的に良くなっていたからでした。

アウトバーン起工式のヒトラー

巨大化しすぎた突撃隊は軍との軋轢を生んでいきます。しだいに盟友のレームとの対立も深刻化し、ヒトラーは突撃隊を粛清することに決めます。1934年レームを始め突撃隊幹部を処刑し、支隊だった親衛隊の管理下に置きます。いわゆる『長いナイフの夜』です。

ヒトラーとレーム
レームはナチス内で唯一ヒトラーを『du』で呼べる盟友で、ヒトラーをバカにする発言もしていた。



同年ヒンデンブルク大統領が死去すると、大統領の権限も掌握するようになります。いわゆる『総統』の誕生です。

今日はここまでです。よく『ヒトラーは民主的に政権を獲得した』と言われます。保守派がナチスを取り込もうとしたのが、すべての始まりでした。国民も経済対策のみしか関心がなかったのです。恐ろしいですね。


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