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《世界史》イワン雷帝

こんにちは。
Ayaです。
今日から2回にわたって、ロシアのイワン雷帝からロマノフ朝の成立についてまとめます。
昨日の投稿に予告を入れたらロシアが引っかかって、注が入ってしまったようですが、気にせずにいきます!

イヴァン雷帝(1530〜1584)

イヴァン雷帝は1530年モスクワ大公ヴァシーリー3世の息子として生まれます。父の急死により、3歳で大公に即位します。勿論親政を行えるはずがなく、母が摂政を務めますが、1538年には母も亡くなります。母の死後は大貴族の元で虐待に近い状態で育てられたため、父母の死について毒殺だったのではという考えに取り憑かれます。
その過酷な状況下で成長し、1547年には初の"ツァーリ"として即位、親政を開始します。
大貴族の力を削ぐため、ツァーリの直轄地をオプリーチニナに設定し、その管理にオプリーチニキ(親衛隊)を配置するなど、中央集権体制を確立しました。その一方で、自らに反抗した大貴族を一族郎党、都市を住民まるごと処刑するなど残忍な粛清を行ったため、『雷帝』と恐れられました。後の独裁者スターリンも参考にしたそうです。
1584年チェス対戦中に失神し、そのまま崩御します。
享年54歳。

イヴァン雷帝
存命中の肖像画はほとんど残っておらず、後世の画家による作品が多い。
冷酷な君主として知られるが、信心深く教養も高かったといわれている。

残忍な性格は妃たちや息子にも影響を及ぼします。イヴァン雷帝は全部で7人の妃と結婚しています(ヘンリー8世もびっくり)。しかし、当時ロシアでは女性の地位は低かったため、生年の記録がなく、肖像画も残っていません。なので取り上げるのは後世の画家による創造図です。妃たちについてまとめてみます。

アナスタシア・ロマノヴナ・ザハリーン(?〜1560)

イヴァン雷帝即位の年に結婚しました。国中の美女を集めて決めた美貌の妃で、当時は善政をひいていたイヴァン雷帝と仲睦まじく過ごしました。息子イヴァンとフョードルの2人をもうけますが、1560年亡くなります。イヴァン雷帝は嘆き悲しみ、両親と同じ大貴族による毒殺を疑い、大貴族を粛清しました。この時からイヴァン雷帝の猜疑心は悪化したと言われています。
彼女の実家がロマノフ家の前身で、イヴァン雷帝と彼女の結婚はのちのロマノフ朝成立の足がかりとなります。

1番目の妃アナスタシア
アナスタシアが亡くなった当時、イヴァン雷帝はまだ30代のはずだか、後世の制作なので、老人で描かれている。

マリヤ・テムリュコヴナ(1544?〜1569)

イスラム教徒のカフーカス地方の王族の娘で、最初の妻アナスタシアを亡くし意気消沈していたイヴァン雷帝が美貌に一目惚れして結婚しました。結婚時にロシア正教に改宗し、言葉を覚え、イヴァン雷帝に助言まで行っていましたが、その態度は大貴族の反発を招き、魔女と陰口を叩かれていました。一子をもうけますが、すぐに夭折。自身も1569年亡くなります。イヴァン雷帝による毒殺が噂されましたが、イヴァン雷帝はこの噂に怒り、暗殺を疑った者を拷問にかけました。

マルファ・ソバーキナ(?〜1571)

ノヴゴロドの商人の娘で、前妻マリヤ亡き後、選ばれたました。しかし、その数日後謎の病に冒されることとなります。親が娘に体力をつけさせようと与えた薬を飲みすぎたのだと噂されました。立つこともままならないマルファでしたが、イヴァン雷帝は結婚式を強行、半月後マルファは亡くなります。イヴァン雷帝は最初の妻アナスタシアと同じく毒殺を疑い、前妻マリヤの兄をはじめ多くの貴族を粛清しました。

アンナ・コルトフスカヤ(?〜1626)

ロシア正教会では4回以上の結婚を禁じていましたが、イヴァン雷帝が正教会とかけあい、無理やり結婚を認めさせました。彼女は高級娼婦の娘といわれています。このような結婚の経緯がありながら、イヴァン雷帝は彼女に飽きたのか、不妊を理由に2年で離婚、修道院に幽閉します。イヴァン雷帝の死後のゴタゴタを見送り、亡くなります。

アンナ・ヴァシリチコヴァ(?〜1576?)

ロシア正教会の許可を得ずに結婚したため、ロシア正教会は彼女以後私通とみなしています。出自がはっきりしていませんが、イヴァン雷帝の寵臣の一族だったのではと考えられています。1576年かその翌年に亡くなりましたが、死因は謎で、イヴァン雷帝自身が撲殺したのではと言われています。

ヴァシリーザ・メレンディエヴァ(?〜?)

1577年下級貴族の未亡人で子連れだったヴァシリーザと結婚します。美人でイヴァン雷帝も愛していましたが、結婚から数ヶ月後不倫が発覚。怒ったイヴァン雷帝が不倫相手を串刺しにし、ヴァシリーザ自身も生き埋めにしたと伝わっています。ヴァシリーザは修道院に幽閉されただけとの説もあります。

6番目の妃・ヴァシリーザ
不倫自体冤罪の可能性がある。真相は不明。

マリヤ・ナガヤ(?〜1608)

1581年にイヴァン雷帝と結婚、翌年末子ドミトリーを産みます。しかし、イギリスとの国際結婚を求めたイヴァン雷帝はエリザベス1世にプロポーズしたり、エリザベス1世の姪との結婚を求めます。二回ともイギリス側に無視されましたが、もし実現したらマリヤは離婚されていたでしょう。
1584年にイヴァン雷帝が崩御すると、息子ドミトリーともども追放されます。追放先でドミトリーが事故死するとその過失が問われ、修道院に送られます。しかし、当時の人々はこのドミトリーの事故死はボリス・ゴドゥノブ(次兄フョードルの義兄)による暗殺と噂し、数年後問題となります。

このように7人の妃を取っ替え引っ替えしていたイヴァン雷帝ですが、期待の息子イヴァンの命さえ奪ってしまいます。

イヴァン・イヴァノヴィッチ(1554〜1581)

イヴァンはイヴァン雷帝と最初の妃アナスタシアの子として生まれます。弟にフョードルがいますが、フョードルは軽度な知的障害が疑われたため、イヴァン雷帝にとってかけがいのない後継者とされます。
イヴァンは父親譲りの勇猛な性格に育ちますが、イヴァン雷帝が自分の妻を気に入らずに離婚を命じると、その指示通りに離婚するなど、絶対服従でした。
1581年イヴァン雷帝が息子の妻の不出来に怒り、杖で打ち付けます。そのせいで妊娠中だった息子の妻は流産します。度重なる仕打ちに耐えてきたイヴァンでしたが、さすがにこの事態に怒り、父イヴァン雷帝のもとに怒鳴り込みます。父イヴァン雷帝も怒りが治らず、揉み合ううちに息子を杖で撲殺してしまうのです。まだ27歳でした。この事実に絶望し、イヴァン雷帝は不眠症を悪化させ、よなよな徘徊するようになったと言われています。

自ら殺した息子の遺骸の傍に座るイヴァン雷帝

結局イヴァン雷帝の死後、次男のヒョードルが即位します(フョードル1世)。しかし、彼は義兄ボリス・ゴドゥノブに政務を一任し、こどもを残さずに亡くなります。ボリス・ゴドゥノブがツァーリ位を簒奪し、イヴァン雷帝のリューリク朝は断絶します。

今日はここまでとします。7回も結婚したイヴァン雷帝、まとめるのが大変でした。まだヘンリー8世は正当な後継ぎをたくさん欲しかったという理由がわかりますが、イヴァン雷帝の結婚歴だと5回目からは正当な結婚と数えられず、こどもも庶子とされてしまうので、理由が謎です。ただ性欲を満たしたかったとかではないと思うのですが‥。
この後の展開がそんなことあるんかい!とつっこみたくなるので、お楽しみに笑!


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