どうしてこうなった!? 宗達を起点に見る、おどろきの山岳表現 -鑑賞力をバクアゲ! ~美術を見る力をつけるためのガイド~ 第ニ回!《前編》
☆やや初心者~中級者向け
☆☆詳しい方にとってはつまらないかもしれません。
☆☆☆ちょっとだけ独自解釈あり。
こんにちは。
今回は、ある作品を元に、日本絵画の山岳表現について見ていきたいと思います。
その作品はコチラ↓↓
みんな大好き、琳派の元祖。
俵屋宗達の『源氏物語関屋澪標図屏風』です。
↑は右隻。『源氏物語』の第十六帖、関屋の場面。
左隻には第十四帖の澪標の場面が描かれています(ここでは割愛)。
右隻では光源氏が向かっている石山寺の山々が、
左隻では住吉の地を描く際につきものの、水の表現が大きく美しく描かれています。
…そう、山です。
丘ではありません。おそらく。
たとえ人物より3倍くらいの大きさしかないにしても。
しかも、山の生えかた(?)…
いや急すぎるでしょ!?
金地の上に、アイスクリームみたいな乗っかり方w
なんでこんなんなったのか…
日本の絵画における、山岳表現の変遷と受容を見ていきたいと思います!
“山”
それは日本絵画において、非常に古くから描かれてきたモチーフです。
現存最古の唐絵屏風(平安時代)や、やまと絵屏風(鎌倉時代)、また様々な古い絵巻物などにも、山々が描かれています。
それは、古来より日本が手本にしていた中国の絵画に、多く描かれていたからに他なりません。
そこでまずは中国絵画の山水表現を、その黎明期から見ていきたいと思います。
それは魏晋南北朝時代(184年~589年)、大国が倒れ、争いが起こり国々が勃興、また禅譲で国が譲られても政争で処刑、また処刑…
そのような世の中が続き、人々の心には厭世観が広がりました。
大国の下で安定した政治が行われている間は、儒教が隆盛しましたが、厭世感が広がると、儒教よりも玄学=老荘思想、または道家の思想に人々は共感するようになっていきます。
士大夫* たちの間では、出世や政治に勤しむよりも、世俗を離れて隠匿し、仲間と酒を交わしながら清談(=玄談)し、自然に戯れることをよしとする風潮が生まれます。
*士大夫…意味は時代によって多少異なる。この場合は「官僚で知識人」くらいの意味と捉えて下さい。
有名な“竹林の七賢”も、そんな中で生まれたひとつの理想像でしょう。
このような世相の中から、絵画によく自然景観が描かれるようになったと思われ(作品は現存してはいませんが)、「山水画」の記録が晋の時代から見られるようになります。
そののち、南朝時代に書かれた山水画論には、山水画の思想、精神がよく表れています。
以下は南朝、劉宋の宗炳(そうへい)による、『画山水序』の一節です。
宋炳は宋の隠者で、何度も士官の誘いを受けますがその度に断り、名山を巡り歩いたといいます。
ここには、山水に戯れることを実践し、それがかなわない場合には心の中で行う(”臥游”=横になったまま巡り歩く)という観賞態度、またそのための装置として山水の絵画が働くことが示されています。
また、
つまり、山水画の黎明期の時点ですでに、中国の重要な2大思想が、山水画の精神に反映、統一されていたといえます。
また、晋が侵され、華北には異民族の国がたつと、漢民族の国は江南地方に移った為(東晋)、
雄大な華北の自然とは趣が異なる、江南の風光明媚な景観に注目が集まったことが、山水画の描かれた要因の一つとなったであろうことも、明記しておかなければなりません。
さて、山水画が初め、どのような描かれ方をしていたのかは、その頃の作品が残っていないため、良くわかっていません。
戴逵(たいき)という画家がその名手だったと伝えられていますが、作品は残っていません。
また顧愷之や陸探微といった、名だたる画家が山水画を描いたとも言われていますが、それも残っていません。
画家たちがどのように描いたのか…
それを伺い知る事ができるものがあるとすれば、冒頭に載せた、顧愷之の『洛神賦図』や、『女史箴図』でしょう。
ただしこれらはいずれも摸本です。
また山々は主役ではなく、人物の背景として描かれているだけなので、いわゆる“山水画”ではありません。
少なくともこれを見る限りでは、山や樹木に比べて、人や馬が大きく描かれていることを、ひとつ念頭に置いておきましょう。
時代が下り、随の時代。
世が安定してくると、絵画も絢爛豪華になり、また大変多くの画家が活躍しました。
巻軸形式の絵画も描かれるようになり、山水画巻が登場します。
上記の作品は、伝世する最古の山水画巻です。
画像では見えにくいですが、所々に非常に小さく人が描かれているのが見えます(真ん中の船にのっている人と、水辺の周りにいる人々)。
この作品は山水画の過渡期の作品といれますが、それでも、
この後に青緑山水画が発展し、さらには時代を経て、水墨の山水画が中国絵画のメインストリームになっていきますが、
この流れがなければ、恐らくそのようにはならなかったでしょう。
そしてこのあと、中国絵画が日本に入ってきたその時、
それらはまずこのようなバックボーンを持っていたかもしれないことを、念頭に置いておくとよいでしょう。
…さてさて、次回後編(もしかすると中編かも!?)
ーーなぜ散り散りに!?
妙な散らしぐせの日本…なんでこーなるの!??
(予告とは異なる場合があります。ご了承下さい笑)
《参考文献》
任道斌・関乃平 著|中国絵画の流れ-上古から現代まで-|有限会社露満堂|1997.12.5
宇佐美文理 青木孝夫 篇|芸術教養シリーズ27 芸術理論古典文献アンソロジー 東洋篇|藝術学舎|2014.6.18
前田耕作(監修・執筆)_他|増補新装カラー版 東洋美術史|株式会社美術出版社|2000.2.10(2012.3.30 増補新装初版)
静嘉堂文庫美術館(公益財団法人静嘉堂)|静嘉堂創設一三〇周年・新美術館開館記念展Ⅰ 響きあう名宝ー曜変・琳派の輝きー|静嘉堂文庫美術館(公益財団法人静嘉堂)|2022.10.1
宇都木章監修 小田切英執筆|すぐわかる中国の歴史【改訂版】|株式会社東京美術|2003.5.1(2022.10.30改訂版第8刷発行)
《参考WEBサイト》
俵屋宗達-Wikipedia(最終閲覧日2024/9/29)
魏晋南北朝-Wikipedia(最終閲覧日2024/10/15)
Wikipedia-老荘思想(最終閲覧日2024/10/25)
Wikipedia-論語(最終閲覧日2024/10/25)
Wikipedia-清談(最終閲覧日2024/10/25)
Wikipedia-竹林の七賢(最終閲覧日2024/10/25)
Wikipedia-宗炳(最終閲覧日2024/10/25)
顧愷之-Wikipedia(最終閲覧日2024/9/29)
Wikipedia-戴逵(最終閲覧日2024/10/27)
Wikipedia-中国の絵画(最終閲覧日2024/10/25)