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world changer no.3 人間は枠に囚われている

例えば
「この建物は3階建て構造になっているんです」
と言う言葉を聞いて

あなたは?
どんな事を感じただろうか?
どんな事を思っただろうか?
何を考えただろうか?

とわたしは考えるのだ
一般的思考から推測するに

「3階建て構造になっている」

この「言葉」はある種の錯覚を引き起こし
人間の心理と理解を誘導する

大抵の人は
「何を迷う事無く」
「何かに疑問を持つ事無く」 

当たり前の様に
「そうなんですね」=3階建て構造と言う理解
になり納得するのでは無いだろうか?

今ある情報は聴覚から受け取った
「3階建て構造になっている」
と言う事だけだ

ここに視覚情報として
「地上から3階建てになっている建物」
が追加されたとしたら

うん、やはり
「3階建てなのだな」
とより深く確信に至るのでは無いだろうか?

しかし、わたしはそうは思わない
何故ならここで1つの可能性が浮上する

「地下」が存在するかも
知れないと言う事だ

大抵の人間はそんなに不親切でも
意地が悪くも無い
当たり前に全てを説明するだろう

その「前提」のもとに
わたし達は考え行動している

ではその「前提」
そのものが無いとしたら?

どうだろうか?

① 「この建物は3階建て構造に
なっているんです」と言う聴覚情報

② 「地上から3階建てになっている建物」
と言う視覚情報

うーん、ならば...
ここで「地下3階建て構造」
と言う「可能性」が浮上してくる
(つまり地上3階、地下3階建て
構造の建物である可能性だ)

では何故、地上3階建て構造であって
地下の「可能性」が浮上しなかったのか?

となれば、それは視覚情報として
「地上3階建て構造の建物」を見たからだ

すると人間は「地下」の
「可能性」など考え無いし
「地下は存在しない」と考える

実際は
「地上と地下の3階建て構造の建物」
だったとしても

説明した人間である「本人」
がそれを「伝えるか」

もしくは説明された人間である
「自分自身」が「可能性」を考え
「質問するか」

でなければ「実際のanswer」には
たどり着く事が出来ない

それ程までに
わたし達人間はある種の
「枠」に囚われているのだ

別の言葉で表現すると
「固定概念」や「一般的思考」
「常識」や「普通」
と言ったモノから導き出され発生する

それは「枠」である

ここで1つ風景構成法についての
話しをしよう

これは、中井久夫によって
1969年に創案された
絵画療法(芸術療法)

統合失調症患者への描画を介した
治療的接近の可能性と適用性の追求
と言う極めて実践的な見地から生み出された
一技法であり

箱庭療法やなぐり描き法の
示唆を受けて中井が草案したものである

理論的にも分析され
その後は日本の臨床場面に置いて
研究が続けられている

中井は1970年頃に東京で開かれた
第一回芸術療法研究会に置いて

河合隼雄の箱庭療法に関する講演から
多くの示唆を受けたのだと言う

河合は統合失調症患者の箱庭を示して

『彼らは枠の中に柵を置いて
囲んでからものを置く』

『彼らの世界はこの柵の外側の狭い空白の
部分かもしれませんね』
と言った

その時、中井は
『箱の枠だけでは保護が足りないのではないか』
と気づいたのだと言う

後に中井は
画用紙に治療者自らが枠を描き入れる事で
安全保障感と保護を与える
『枠付け法』を生み出した

風景構成法は
ロールシャッハテストの様な
投影的表象を解釈する物とは
対照的なアプローチであり

枠組みの中で構造化された空間に対し
統合的指向性を持って表現される
構成的表象を読み取る技法である

また、その彩色の過程は
投影的表象を表現していて
投影的方法と構成的方法は補完的に機能し
相互から有用な知見を読み取ることが可能だ

過去にわたしもロールシャッハテスト
を受けた事があるが
自身の経験から

否定派と同様に
わたしも複雑で分かりにくいと考える

現実の人間の様々な側面を
捉えきれているとは言えないし

その解釈は合っているのか?
と思える程にわたしには
全く当てはまりはしなかった

現在ロールシャッハテストの
使用頻度は限られている

全ての臨床領域において
ロールシャッハテストは
主要なアセスメントツール
となっていない

それ程までに曖昧で言い方は悪いが
(適当に)どうにでも解釈と位置づけ
がされてしまうし

それは本人の心理が反映されているのか?
それともそれを受け取った
医師や心理士の心理が反映されているのか?
と思う程に

科学的妥当性の疑問や分析効率の悪さは
否めない(科学よりも心理の面で)
わたしは妥当性を感じられ無い

中井は統合失調症患者への治療法の
1つとして風景構成法を創案したのだが

わたしは、余程こちらの方が
全ての人間に対しての(心理的側面)
からの妥当性を感じる

何故ならわたしは実際に自身でも
試み

そして何ら関係の無い何人かに
同じ様にテストをしてデータを
取ってみた

その結果、ロールシャッハテストでは
感じる事の出来なかった、深層心理や
解釈と位置付け、そして更にそこから
わたしは気がついたのだ

風景構成法のやり方としては

まず治療者が患者の前で
画用紙の四周をサインペンで枠取りをする

その画用紙とサインペンを手渡す

インストラクションとして
画の上手下手を観るのではない事と

患者自身の風景なので
どの様な風景が出来ても良い事を伝える

その後以下の順序で一つ一つ描いてもらう

第一ステップ 【大景群】
『川』→『山』→『田』→『道』

第二ステップ 【中景群】
『家』→『木』→『人』

第三ステップ 【その他のアイテム】
『花』→『動物』→『石とか岩のようなもの』→『足りないと思うもの描き足したいと思うもの』

終了時には
『これで良いでしょうか』
と確認し
大丈夫であればクレヨンや色鉛筆を渡して
彩色して完成となる

これが基本的なやり方だ

中井が後で足した『枠付け法』は最初の枠取りを
画用紙に治療者自らが枠を描き入れるモノで

①はつまり「自分自身で枠を決める事」
から始まるのだ

わたしは、それぞれに「同じ」様に
枠を取り、その「手順」で後は自分の
思う様に自由に描いて下さい
色もあっても無くても、全てはあなたの
自由であり、あなた自身が決めて下さい
と言ってテストした

「これで良いですか?」の確認はしない
自分自身で良いと思ったらそれで良しとした

わたしは、この風景構成法に関して
手順(描く順番)と(描くもの)が大事
であり最も重要な点は「自由である事」と
「自分自身で決めた」と言う事だと考える

その為、説明は、はじめに全て行い
スタートから終了までは自分自身が決める

箱庭療法に置いて最も重要なのは
「枠」であり
箱庭の「枠」があるために
箱庭による自己表現が可能なり
治療効果が期待される

殆どの人間は「何も無い状態」より
決まった「枠」が存在し、それにより
「範囲」が限定される為、それにより
ある一定の「安心感」を得られる

これは仮に世界に例えたとして
このどこまでも続く果てしない
「外」に自分がいて物事を進めるか?
それとも限りがあり、安全と言える
「家」に自分がいて物事を進めるか?
の様に捉えて考える事が出来る

それくらい「枠」=安心感に繋がる
箱庭療法はその決まった枠の中に
色んなアイテムを置いて行く

中は砂場になっており(特にどんな砂であるか)
と言った決まりは無い

わたしはこの箱庭療法に関して
中井同様に「枠」に注目していた
「枠」の必要性と「重要性」

しかし
『箱の枠だけでは保護が足りないのではないか』
この中井が気づき思った様に

わたしも同じ事を気づき思ったからだ
そこから生まれた風景構成法は

箱庭療法から一歩進んだ「自由」が存在する
とわたしは考える

確かに人間は「枠」が決まっている事に
「安心感」と「範囲」が限定されていると
考えやすく、「行動」しやすい

しかし一方で「枠」が決まっている為
枠の外が反映され無い、そして限定的で
ある事は「自由度」を下げる事になる

と言う問題をある程度解決した方法が

風景構成法であり、二次元的要素
を取り入れ、画用紙に描く事で
「決まり」が無く「自由度」は
上がる

「枠」に関してもはじめに
自分自身で「決める」事が出来るので
安心感に繋がるのだ

わたしは先程
「問題をある程度解決した方法」
と述べたが

わたしは更に考え、気づいた

もし、はじめに「枠」の「範囲」を決める
段階で「枠」はあっても無くても(つまり)
「描きたく無ければ描かなくても良い」
と言う選択肢があるなら?

わたしは「描かない」だろう
何故ならわたし自分自身が「枠」に囚われ
ていない人間であり

その「枠」を狭いと感じ
自分自身の「可能性」と「自由度」を
著しく下げると感じるからだ

何でもありなら?わたしは「全ての可能性」
を考え描くだろう

しかし、一方で「殆どの人間は」と
わたしが記載した様に

人間は「枠」を必要とし「枠」に囚われている
だからこそ
「枠」が存在しない=無限大の世界に
放り出された状態と同じであり

不安感と「何をどうしたら良いか解らない」
となってしまうのだ

それは、ある意味当然と言える
人間には指標が必要であり

だからこそ、固定概念、一般的要素、普通
普遍的要素があり

それに沿った形で生きているのだから

それでも「枠」が存在しない
わたしの様な人間は存在する

その様な人間からすれば「枠」は必要無く
その無限大の可能性から

「全て」を考え出す事が可能なのだ
よって不安も無ければ
どうして良いか解らないとはならない

寧ろ「枠」の中で生きる事が困難である

だからこそわたし齋藤綾嘉は
思った

この最初の「枠」と自分自身で取り決める
時に「枠」を描くのか描かないのか
と言う「選択肢」が必要なのだと

そしてより
「自由度」を重視=自身の心理的反映の尊重
の為に、「確認」は無しとし
最後まで描き「自分自身」が良しとした
段階から

心理士とのやりとり(解釈や位置付け)を
考える事が望ましいと考える

であるならこの方法はかなり
有用な知見を読み取ることが可能と
考える事が出来るとわたしは感じる

では、一番最初の「3階建構造の建て物」
の話に戻ろう

この様に「地下の可能性」が浮上する
人間は「枠」に囚われていないのだ

だからこそ「どんな可能性もあるのだ」
と考える

結果として「同じ」情報から導かれる
物に対して差が出る

このくらいにworld changer達には
「枠」が存在しない

そして圧倒的な情報量とそこから
導かれるその差は

一般的な人間が「想定する範疇」を
超えて行く

それくらい人間とは枠に囚われているのだ

であるから、当然「その様な人間」を
理解する事は不可能に近いのだ

わたしは、world changerに限らず
「不明瞭な何か」を持つ人間を「理解」
する事が最も重要な事であるとは考え無い

人間はそれぞれに「違い」個である以上
全てが一致し、全てを理解する事は不可能
だからだ

それは一般的か一般的では無いかなど
の全ての人間に共通して言える事であり

重要である事は「完全な理解」では無く
「知る事」「情報の共有」「そんな人間も存在するのだと言う事」であって

それが「互い」に認め合う
それが「個人」を認め合う
事に繋がる

皆が一緒である必要性は無く
どんな人間であっても「人間」なのだと
言う事、この前提が必要なのだ

これが現在「全ての人間に置いて」
そうでは無い

だから人間は争う
だから人間はそれぞれの「主張」と言う名の
正当化をし責任転嫁する

「主張」とは自分の意見を強く言い張ること
また、その意見であるが

簡単に言えばそれぞれの持つ
「意見」であり考えだ

だからこそ齋藤綾嘉が何度も繰り返し
訴える様に人間には「話し合い」が必要なのだ

それぞれの意見や考えは皆が違い
互いに互いの事は解らない

であるならば争うのでは無く
「話しを聞き」「話し合う事」で
問題は解決出来るのでは無いか?

前提に「こうである!」と言った
今ある固定概念、一般的要素、
普通、普遍的要素などを取り入れる事自体に
わたしは疑問を感じる

誰かが「勝手に」マイノリティとマジョリティを判断し、「何」が普通であるかは
それぞれの人間で異なり、同じでは無いのだ

それを「前提」としている内は
「ミエナイ」ボーダーラインは存在し

人間達は「括り」「仕分ける」
そして永遠に「枠」に囚われ続けるのだ

よって「争い」は終わらない事になる

人間よ、思考せよ
人間よ、争うな

人間よ「枠」に囚われるな
人間よ「枠」を決めるのは自分自身だ

それがわたし、齋藤綾嘉が考える
人格心理学からなる
「パーソナルリアリティ」(自己世界)と言う
概念と提義、理論だ

わたしはその様に人間は
自分の世界の中で生き、自分の世界から
物を見る、自分の世界の中で人格形成は
成され

そしてそれは生きている以上
「変化」し続ける

つまり、人間のパーソナリティは死ぬまで
変化し続けると言う理論だ

この理論は現在に置いて完成された
物では無く、わたしの考える仮説と
推測、推論の域を出ない

しかし、わたしはそれを今もずっと
思考し続けている

今回の記事で最も皆さんに伝えたかった事は
人間の持つ「枠」について

そしてどれだけ「枠」に囚われ、生きているのか
それについて今一度考えてみて欲しい

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