【常識】を超えて 生きてみる
思考ではなく、体感覚で
今、わたしは【自分の感覚を頼りにする生き方】にシフトしている。【自分の人生を生きる】というときに、自分の感覚こそがとても大切なことだって思うようになったから。
だから、離婚も、新しいパートナーとのスピード同棲も、わたしの中の深いところにある【感覚】を信じて、決断できたのだと思う。
そのように生きることを始めてから、俗に言う【願いが叶いやすく】なったと思う。願いが叶うスピードが加速している。
現に、離婚を決めた時点では先行き不透明だったのに、5ヶ月後の離婚届けを提出したときには、離婚後一緒に住むパートナーが決まっていたのだ。
「そうなったらいいな」と、ずっと想像はしていた。妄想かもしれないけど、具体的に想像ができた。想像していたら、流れができて創造された、そんな感覚。こんな風に実現するものなのか?と半信半疑だが、現実にそうなったのだから信じる方に軍配が上がる。
世間一般の「常識」や、自分以外の誰かの「普通」や、自分の「過去の経験」、世間体なんかを気にして、頭であれこれ考えて判断し決断する生き方は、もう終わりにしようと決めてみた。
自分の奥のほうで感じている【この感覚】を頼りにする生き方をしてみようかなと。これが、わたしの新しい探求なのだ。こんな風に生きると、どうなっていくのかな、っていう探求。
離婚の決断
まだまだ先の話だと、自分さえ思っていた。娘がせめて小学校を卒業するまでは、現実的に無理だろうと。
しかし、娘が9歳になる目前にわたしたちは離婚が決まった。世間一般の家族としては、「仲の良い」とか、「離婚するほどじゃない状態」に分類される家族だったと思う。
離婚は、わたしから申し出た。
わたしが考えに考えて出した答えだったわけではなく、わたしの中で感じている感覚に従い、選ぶことになった道だった。
わたしの中に離婚したいという気持ちがあることを自覚できてからも、なんとかその気持ちを小学校卒業までは持たせようと思っていた。
しかしある日、自分の中にある離婚に対する感覚が居ても立っても居られない感覚になり、小学校を卒業するまで待つなんて無理だ、となってしまったのだ。
頭で考えたら、わけがわからない。子どももいるのに。
たとえば夫といたら自分や子どもの命の危険性がある、というような緊急性もない我が家の家庭状況で、離婚という判断をするのは、自分勝手で衝動的な行動に見える。でも、わたしの中の感覚は決して衝動的な行動ではなかった。自分の人生を大切にするためには避けてはならない【向かうしかないこと】という感じだった。
わたしには必要なことで、家族みんなにとっても離婚によってよりよくなるという感覚しかなかったのだ。
離婚したあとのことに、なんの確約もない状態で離婚することを決断できたのは、わたしの中の深いところにある【感覚】を信じたからだった。
離婚して3ヶ月目になるが、離婚してよかった。言い出しっぺのわたしがそう感じるのは当然かもしれないが、娘も新しい家族のスタイルを楽しいと言っていて、元夫もわたしに感謝の気持ちを持てたから離婚してよかった、と言っている。
未知なるパートナーシップへ
離婚後、わたしが一緒に住むことになった新しいパートナーは、一緒にいてとても心地よい。わたしにとってネックになりやすい「会話」についても不快感や不完全燃焼感がなく、生活の仕方も似ているから、同棲していて違和感がない。
それでも、わたしとは違う考え方や感じ方をする部分も当然ある。中には理解はしがたいものもあるが、互いの違いをそのままにしておけるから、彼を受容できてるのだと思う。
ただ、恋愛観については、わたしの普通とはちょっと違う。
わたしのパートナーは、わたしのことをすごく大切に想ってくれているし、大事に扱ってくれる。けれど、わたしが今まで持っていた恋愛観とは違うので、共感するのは難しい。
その部分も受容できるわたしになりたいと思っているけど、本当はイヤだなと思っているから、わたしの中に葛藤が起こるときもある。わたしは、彼のその価値観を、知り合った最初から聞いていたから知っていたけれど、なぜか、彼と関わらない理由にはならなかったから同棲を始めた。
共感はできないことも、受容できるわたしになりたいのに、感情は「悲しい」「寂しい」と揺らいでしまうのが、ありのままのわたし。
わたしが彼の理解に苦しんでいる真っ只中にいるときは「なぜ私はそんな人と今一緒に住んでいるのだろう」と、自分の信じている感覚を疑いそうになる。
けれど、自分の中を静かにしてみると、わたしが「彼と関わる」と感じているのは、確かな【感覚】としてやっぱりわたしの中にあるのがわかる。
彼がありのままでいてくれることは、わたしの喜びである。だから、彼の話を受けて傷つき苦しむときもあるけれども、彼と関わることをやめる理由にはならない。
生活習慣と健康のこと
わたしは、もともと管理栄養士として働いていて、病気の予防や改善には、関心が高い。
十数年のキャリアを通して、ずっと健康と食の関係性を探求してきた。だからわたしの中では、病気の予防や改善には、生活リズム、食生活、運動状況などの生活習慣が鍵を握っているというのが、常識となっていた。
たとえば、夜遅くに食べることや、農薬や添加物の入った食品を日常的に食べることや、糖質や脂肪などに偏った食生活は体に良くないといった考え方。
そんなわたしが、今のパートナーと同棲し始めてから生活習慣が変化した。
まず、よい変化としては、運動をするようになった。あくまでもわたしのペース(頻度と量)でしかやってないが、筋トレとランニングを。筋肉の少ないやせ型だったので老後が気になっていたが、心肺機能が上がり、筋肉が少し付いて身体つきが良くなった。
生活リズムと食生活は、不思議な体験をしている。パートナーと一緒に食べたいから、夕食は22〜23時になるのが日常になった。この時間は、彼と同棲する前はわたしの就寝時刻だ。
その時間に夕食なのだから、当然、寝る時間はもっと遅くなる。0時を過ぎることもザラで、朝は7時だと早起きで、たいてい8~9時に起きる。体もそれになじんでいき、体が目覚めるままに起きるという生活になった。
パートナーは、添加物とかまったく気にしない。栄養バランスを考えるとかもしない。彼は、自分の今の感覚に従う人なので、それによって食べたいものを決めるというやり方。
料理はわたしのほうができるし嫌いじゃないので、基本わたしがしている。めんどくさがり屋ではあるが管理栄養士で培った知識があるので、手間はかかっていないけど栄養的に配慮した食事を今も作っている。けど、夕食後に彼と一緒になってお菓子を食べたりするようになった。
ショートニングや添加物が入った市販のデザートなんかも、以前は美味しいとも感じないし体に良くないものがあれこれ入っているから避けていたが、彼がわたしと一緒に食べようと思って買ってきてくれるのだ。
彼の気持ちはすごく嬉しくて、受け取りたいので、まったく口をつけないということだけはしたくなかった。恐る恐る食べる感じだったのだけど、食べた後に胃もたれや腸の不快感が起こらないことが食べる機会を重ねるごとに増えていくという、今までなら考えられない体験をした。食べても大丈夫ならばと、あまり避けなくなっていった。
味についても、避けていたころは、ひと口食べて「うわっ、これは食べられない味だ」と感じていたが、そのような感じ方は食べ物に対してとても見下しているような意識でイヤだなと感じるようになったので、そのような意識をやめてみたら、食べても「食べられない味だ」とは感じなくなっていったのだ。
結果、食べられるものが増えた。食への意識がまったく違う彼と、食をともにすることができるようになった。すごく嬉しい。
こんな生活を始めて3ヶ月目だけれど、体型は変わらずウエストのくびれがあるし、お尻も年齢の割には垂れてないのは変わらないし、肌も変わらない。周りからは若返ったとさえ言っていただく。
この現象は、今までのわたしの知識やキャリアからは考えれないこと。いったい何が起きているのか。
自分の感覚に素直になり、罪悪感を手放して、食べ物を優劣や善悪で分けることを手放して、むしろ楽しんでいると、体に良くないと言われることをしても悪影響にはならないということなのか。
3ヶ月では確信をもってはまだ言えないが、そんな気がしている。
食生活の体への影響は、一朝一夕にはいかないのは重々承知しているので、年単位で検証していこうかなと思っている、今の関心ごと。
常識を疑ってみると、【奇跡】が起きるのかもしれない。
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