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表現者になりたい何もない自分

クリエイター、デザイナー、アーティスト、俳優。
この世の中には「表現者」と呼ばれる人はたくさんいる。

今回この記事を書こうと思った理由は優里の「かごめ」を聴いたのがきっかけだ。この曲を聴けば聴くほど長年募っていた私の中の想いが限界突破してやまないのでここに書こうと思った。

優里の「かごめ」は歌詞もさることながら歌い方も表情も声も仕草もすべて「何か」を表現していた。
その「何か」は言葉にすることもおこがましいほどの「想い」だと一視聴者の私は思った。

私は音楽が好きだ。浜崎あゆみを筆頭にRADWIMPS、backnumber、My Hair is Bad、こはならむ、マカロニえんぴつ、さユり、優里、ボカロ、、、最近では昔の曲にはまり中島みゆきなど上記アーティスト以外にもたくさんの曲に心惹かれてきた。

メロディーが、歌詞が、歌い方が、、など惹かれる理由は様々だが、惹かれる背景にはいつも「想い」があった。

私は音楽をつくることも、本をかくことも、絵をかくこともできない。
いや、挑戦したけど道のりが長すぎて間に合わないと悟った。本当に世の表現者たちは本当に本当にすごい。

方や私は、ただ人生を生きていく中で、「想い」だけが募っていく。
シャワーを浴びながら絶叫を嚙み殺して泣いた夜や、背中を見るたび自分が抱いた感情を責めたこと、街行く人を見ながら今すれ違う人があなただったらと思うことなど、私の中に行き場のない「想い」たちが生きれば生きるほどうまれて募っていく。

それがとても悔しくて悔しくて悔しくて悔しくて悔しい。
湧き上がっては来るのに、葬ってあげることができない。
私の中にドロドロと渦巻いて残っていくのだ。

大学生になったあたりから、表現手法をずっと探していた。
手当たり次第に全部挑戦した。でも頭の中にあるものは何も形にならないのだ。

今はtiktokやinstagramなどで何かできないか模索しているが、正直目の前は暗い。
私は「表現」したい「想い」があるのだ。
いつも通り、「違う、そうじゃない」となりそうで怖い。

だがやるしかないので、諦めがつくまでとことんやってみる。
そして私が唯一持っている武器のイベント運営という職歴が、私の「想い」を表現できる方法かもしれないと思いまだ模索を続ける。

そしてたくさんのアーティストや表現者の「想い」に共感し心救われ生きてこれた私のような存在が、自分の表現により一人でもうまれてくれたら大満足だ。

私はまだ何かできるはずだと信じて、最後まで藻掻き苦しんでやろう。

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