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25歳の時、友だちが死んだ。

深夜にその事故は起きて、朝のニュースで友だちの名前が流れたらしい。
それを観ていた大学の同級生Mは、わたしに電話をかけてきた。わたしは仕事中で、滅多にないMからの電話をなぜか「かけまちがいかな」くらいに思って気にもとめなかった。

いつもどおり、会社の同僚たちとランチをして、午後も仕事。
友人の家で夕飯を食べることになっていたから、楽しみで、つまらない作業をしていても気分がよかった。仕事が終わると直接、その友人宅に向かう。

友人が食事の支度をしているあいだ子守りを任され、赤ちゃんを抱っこしてゆらゆらしている時だった。電話が鳴った。大学の同級生Nからだった。
この時、今朝Mからも電話があったことを思い出した。

「もしもし?」

電話に出ると、Nは、「ごめん、電話じゃ話せない。家に行く」という。

Nから着信があった時点で、わたしは違和感を抱いていた。
MとNから電話があって、なんでもっと近しい大学の友人である「彼女」から連絡がないんだろう。

嫌な予感がして、家に帰るとNが新聞を持ってやって来た。
「これ」と言われて見ると、そこには事故の記事があった。
「彼女が事故で死んだ」ということが書かれていた。

Nは、電話に出た瞬間のわたしのあまりに無邪気な様子に、電話で伝えられないと思ったらしい。それで、どうやって伝えようと悩み、新聞を買って来てくれたのだった。

Nに、「明日通夜がある。一緒に行こう。」と言われた。
通夜に行った。翌日の葬儀にも行った。
彼女の地元の葬儀場で、彼女の遺影を見たし、遺体にも対面した。

葬儀の中で、彼女が勤めていた保育園の、彼女がとても大切にしていた(いつも話に聞かされていた)子どもたちからの音声メッセージが流れた。

「せんせい、おほしさまになっても、ずっとみまもっていてください」

涙が出た。涙が出たのは悲しいからだけじゃなかった。いろんな感情とか、記憶とか、その場の空気とか、ないまぜになった結果だった。

彼女の訃報を知った瞬間から、悲しみを感じるところと涙が出るところがズレている感じがして奇妙だった。
涙が出たり、「うそだ」とつぶやいたり、「ばか」と怒ってみたりしても、すべてが自分のその時の感情にフィットしていなかった。

いちばん近かったのは、「わからない」という気持ちだった気がする。

わたしが気分よく一日を過ごしていた時、
わたしの大事な友だちは死んでいた。
それの受け止め方がまったくわからなかった。

わたしはその後、彼女の共通の友人たちとの連絡を一切絶った。
何も思い出したくなかった。事故が起きた「長崎自動車道」という文字を見るとパニックになる。彼女の地元に一緒に帰ったことも思い出したくない。
長崎にも行けなくなった。

出会ったときから彼女には保育士になるという夢があって、それに向かってコツコツと努力してようやく夢をつかんだところだった。結婚もしたいし、子どもが大好きだから五人くらいほしいな、なんて言っていた。その話を聞きながら、わたしは夢もとくにないし、結婚もしたくないし、子どももほしくないなと思っていた。

彼女はたくさんがんばってきて、これからやりたいこともたくさんあった。
わたしだって、彼女の結婚式に出て、彼女の子どもの子守りをする気でいた。
死ぬなら、わたしでよかったのに。

彼女のたった25年の人生。
最初からそこで終わると決まっていたのなら、どうして出会ったのか。
神さま、そりゃないよ。なんでこんな悲しい思いをしなきゃいけないの。
こんな思いをするくらいなら、もう人と関わりたくない。

そんなことを、もう何度も何度も、何度も考えた。

ふつうに過ごしていても、ふとしたときに悲しい感情に引っぱられる。
沼に足をとられ、動けなくなりそのまま沈んでいく。感情を整理する方法がわからなくて、精神が不安定になり、そのうち、仕事に行けなくなってしまった。

思い出したくないはずなのに、彼女のことを忘れてしまうのはもっと怖かった。
ずっと彼女の声や様子を反芻していたから、いまだに、びっくりするくらいよく憶えている。

彼女の大きな手、分厚くてあたたかい手のひら。よく手をつないだし、肩を組んで歩いた。ハグした時の肩のカーブの感じ。まんまるタレ目で、嬉しくても悲しくてもよく泣いていた。
男にフラれて「あやぁー」と泣きながら電話してくるのは彼女の恒例だった。その時の声も、ぜんぜん忘れていない。

誰にも記憶を邪魔されたくない。だから彼女を知る誰にも会いたくないし、彼女を知らない人にはそのことを話したくなかった。話す相手が誰もいないと、人は煮詰まっていく。でもわたしは苦しくていいと思っていたんだろう。苦しくなくなる必要性を感じていなかった。苦しくなくなることは、彼女を忘れることと同じな気がして怖かったのかもしれない。

だけどそのままでは、生きていくのが難しい。

そんなときに(彼女が亡くなって何年も後だった)、テレビで大事な人を失った人が、「悲しみを乗り越えなくていい。悲しみとともに生きていけばいい。」と言っているのをみた。

その言葉をきいて、とてつもなく心が軽くなった。
「悲しいことはあるけど前を向かないと」とか「いつまでも悲しんでてもしかたない」みたいな言葉がしんどかったから。
「ずっと悲しんでいていいんだ」と、自分を許せた気がした。

それからすこしずつ苦しさを解除できるようになり、捉え方も変わった。

彼女の人生が25年で終わることが決まっていたとしたら、彼女の人生の最後、貴重な時間をそばで過ごせたわたしはラッキーだったんだ、と思えるようになった。

出会ってしまったら、かならず別れがくる。
今日、ここで会えるのは最後かもしれないなと思う。
仕事をしていても、いつも。

だから、この人にできるだけその場で、わたしはあなたのことを大切に思っていますということを伝えたい。わたしはあなたに幸せになってほしいと思っているということを。言葉で直接言うのはなかなかできなくても、態度で伝えたい。

わたしは彼女にそれができなかった。そのことを後悔した。「後悔」という言葉を受け入れるのにも時間がかかるくらい。もうあんな思いはしたくない。

彼女が幸せだったかどうかわからなくて、彼女が亡くなった後、それがいちばん苦しかった。
遺した人にそんな思いはさせたくないから、わたしはいつも、「いろいろあるけどまあまあ楽しく生きている」ということをあらわしたいと思っている。

今はもう、「人と関わりたくない」とは思わない。たくさん大事な人がいる。
幸せでいてほしいと切実に願っている。
あなたが幸せでいてくれるなら、自分にちょっと嫌なことがあっても、幸せだと思える。だから幸せでいてほしい。

自分のことはどうでもいい、と思っていたこともあったけれど、自分のことを後回しにすると、人のことも幸せにできないことに気づいて、ちゃんと自分を大事にするようになった。

みんなそれぞれ、「自分の」幸せを追求してほしい。自分に集中してほしい。
わたしはそのほうが嬉しいし、たすかる。
結局、究極の自己中なんだと思う。

25歳の時、友だちが死んだ。
あの時、わたしも死んだみたいだった。だけどまだ生きている。

今のわたしは、ネガティブの果てのポジティブ、みたいな状態だ。
自分が生きてることに意味なんてない。べつに成したいこともない。
彼女の人生じゃないから、彼女の分まで生きるとかは無理。わたしの生きたいように、生きられるようにしか生きられない。
だけどせめて、楽しんで生きる。そのくらいならできる。

最近の記憶のなかの彼女は、よく笑ってる。
彼女は、わたしが楽しんでいるのを喜んでくれる人だった。

トモ、あんたのことわたし忘れてない。ずっと憶えてる。ずっと悲しんでる。いまは、だいたいの時間は、忘れたみたいにすごしてるけどね。
あんた星になったの。ほんとに? もうちょっとそこで待っててよ。いっぱい土産話もってくから。あんたの話もまたいっぱい聞かせてよね。

それじゃあ、またね。

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