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シェムリアップの約束

果たせなかった約束がある。

僕は、また一人でバックパックを背負っていた。
自ら孤独を作り、孤独を旅先の出会いで埋めにいく。この快感を覚えた人間の行動力は図り知れない。安宿を一人で転々とする者はある種の“トリップ”状態だ。

シェムリアップの湿っぽい夏風は、鼻の奥深くを震わせる。
僕はこの街で、果たせない約束をしてしまった。

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カンボジアはシェムリアップ

砂埃をあげてトゥクトゥクは駆け抜ける。かつてクメール王朝が築いたアンコールワット遺跡群に僕はシャッターを切り続けていた。朝焼けに染まる遺跡は地球の歩き方に載っているそれと相違ない。唯一違うのは観光客でごった返しているということだった。

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ポル・ポト政権時代の虐殺や内戦という負の側面は多くの観光客が希釈している。しかし時折、片足や腕のない地雷被害者が物乞いをしている様を見て、確かにここはカンボジアなのだと改めて認識した。

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トゥクトゥクの運転手はラッキーという名前だった。おそらくニックネームだろう。気さくな男で彼は丸一日、僕の足になってくれた。

「オイシッ、オイシッ」

ボディビルが趣味のラッキーは自慢の筋肉を見せながらランチタイムに何度もこの言葉を僕に語りかける。どうやら前の彼女が日本人だったらしい。僕は観光客価格のココナッツカレーを啜り、ラッキーは地元価格のチキンをかじる。お互いカタコトの英語で会話をしながら、時折日本語を挟んでくれるラッキーは一人で異国にいることの心細さを和らげてくれた。

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「ニホンノ、オナノコ、オイシッ」

今晩一緒に飲まないかい?

スコールに降られながら、ラッキーにゲストハウスに送り届けてもらうと一人の青年が出迎えてくれた。名前はスー。ゲストハウスの従業員でおそらく20歳前後だろう。カンボジア人は皆、人懐っこくとりわけスーは社交的だった。彼はまだ学生でバイトとしてこのゲストハウスで観光客の世話をしているらしい。柔和な笑顔の彼とはすぐに心を通わせ、お互いの話で盛り上がった。

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「なあ、今晩一緒に飲まないかい?隣にレストランがある。他にも日本人がいるよ。」

そう言ってスーは歓迎の意を示してくれた。僕は即座に親指を立てた。

日が暮れる頃、僕は約束した場所でスーと落ち合った。しかし待てど暮らせど他の日本人はやってこない。おそらく、バックれたのだろう。スーは「よくあることだ」と言うかのように涼しげな顔で気にも留めていなかった。

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それから僕らは飲み始めた。タワービールを二人で。山盛りのパクチーサラダをつまみながらカタコトの英語で会話する。ちなみに僕はこの時、パクチーを生まれて初めて食べた。(それからというもの、パクチーを食べる度にスーとのサシ飲みの情景が思い出される)

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シェムリアップは今(当時2013年)、高度経済成長だという。学生たちは皆、お金を稼ぎ、家電を揃え、綺麗な家を建てて住むという豊かな生活を夢見て働く。目をキラキラとさせながらそう話してくれた。僕は、彼らのようにピュアな目をして「働く」ということをできているだろうか?そんなことをふと思ったりした。

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一時間ほど経ち、サシ飲みでの話題にも尽きてゲストハウスに戻ることとする。すると、そこには一人の少女が立っていた。

ナイトクラブに行かない?

ゲストハウスの前で立っていた少女に軽快な挨拶をするスー。どうやら彼女はスーの友人らしい。名前をコムといった。年齢はスーと同じくらいだろうか。145センチほどの小柄な彼女はスーに声をかけた。

「今からクラブに行くんだけど、一緒にどう?」

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気づけば僕らはクラブのダンスホールで踊っていた。
僕は大阪ミナミ仕込みの腰使いをお披露目した。

日本人は僕一人。スーとコムの友人が他に4〜5人合流してシェムリアップナイトを楽しむ。現地の若者と一緒に酒を飲み、クラブミュージックに酔いしれ、耳元で叫びながら会話をする。こんなシチュエーションは数時間前までは予想もしなかった。これがバックパッカーの醍醐味だろうか。

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気分が良くなった僕らは踊り続け、気づけば時計の針は日を跨いでいた。そろそろお開きだね、と誰が言うでもなくEXITの方へ足を運ぶ。こうやって楽しい夜はナイフで切ったように終わってしまう。

…まだ帰りたくない。

シェムリアップは高度経済成長といえどまだまだ発展途上だ。クラブからの帰り道は街灯がぽつりぽつりと間隔を空けて灯っているくらいで足元が見えづらい。Iphoneのライトを照らしながら歩く。

皆と歩みを進める中、突然コムが小さな声で話しかけてきた。

「…まだ帰りたくない」

立ち止まるコム。前を歩くスーは振り返り、無言で僕に目配せをした。

(二人で行ってきな)

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僕とコムは二人、薄暗い街灯の下にある移動式の屋台に入る。クメール語が全く読めない僕は、コムにおすすめをお願いした。すると彼女はドリアンスムージーを奢ってくれた。(それからというもの、ドリアンの香りを嗅ぐたびにコムとの夜中の屋台が思い出される)

正直、会話は全く成立していなかったと思う。カタコトのバックパッカー英語にカンボジア訛り英語での会話はすれ違いを重ね続けた。なので、ほとんどがジェスチャーや笑顔でのごまかし、そしてただ目で語りかけるくらいだ。けれど不思議なことに互いが言わんとしていることはなんとなく通じたものだった。

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時計が夜中の2時を回った頃、僕は礼を言って手を振った。彼女は手の平を合わせて小さくお辞儀をした。

カンボジア料理を君に食べさせたい

シェムリアップを去る時が来た。僕は日本に帰る。大阪に戻ってまたサラリーマンに戻らなければならない。そのことをスーに伝えると彼は悲しそうな顔をしながら、出発時間を確認してきた。出発は20時だ。まだ、空港に行くまでには半日以上ある。

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「最後に飯を食べないか?地元のカンボジア料理を君に食べさせたい」

そう言って彼のバイクに二人乗りをしてシェムリアップの街を駆け抜けた。この時もう一人、ソーソーという青年も一緒に来てくれて3人で街並みを眺めながら郊外へ行く。

「ここは何もないだろう?けれどこの一帯は数年後にはたくさんのビルが立つ予定なんだ。じきにこの景色もなくなるよ」

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スーは流れてゆく景色の一つ一つを説明してくれた。本当にここは高度経済成長の真っ只中で、日本が歩んできた道を今まさに通ろうとしている。

スーたちはカンボジアの次を担う世代だ。ポル・ポト政権下で大量虐殺があったことでカンボジアの人口ピラミッドは日本と真逆で若者が多い。彼らには希望がある。ヘルメット越しの彼の眼差しを見てそう感じ取った。日本人よりも生活は貧しいはずなのに心は豊かだった。僕はGDPなんか当てにならない指標だといたく感じた。

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彼らが僕に振舞ってくれたローカルフードは全て美味しかった。あぜ道のど真ん中にある地元の人しか行かないマーケットで、地べたに座りながら食べる飯は最高に気持ち良い。名前も知らない香草を一緒に貪った。聞くところによるとソーソーは学校の授業をすっぽかして一緒に来てくれたという。僕はシェムリアップを去るのが急に寂しくなっていた。

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日が暮れ始め、そろそろ別れの時間が近づいてくる。僕らはゲストハウスに戻り、荷物をまとめた。その時スーが僕に声をかける。

「二階に行ってきなよ」

なんのことだかさっぱりわからない。そもそもちゃんと聞き取れていないのかもしれない。けれど、指差す方には階段がある。僕はスーの目配せを受けて二階に登ってみた。するとそこには、真夜中のドリアンスムージーを一緒に飲んだコムが働いていた。彼女はゲストハウスのレストランで働く従業員だったのだ。

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僕の存在に気がつくと、あろうことか彼女は涙を流しはじめる。どうやら最後の挨拶をできないまま僕が日本に帰ったと思い込んでいたらしい。飄々と現れた僕は面食らった。刹那、こちらも目頭が熱くなる。

「もう日本に帰ったと思った。いつ帰るの?ねえ、次はいつ来るの?」

「今から20時のフライトで帰るよ。えーと、次は、そうだな…来年の夏かな…」

どうしたものか。彼女を悲しませたくない一心で思わず「来年の夏」なんて口走ってしまった。彼女はその「守られない約束」を飲み込んで、手のひらを合わせる。僕らは最後に一枚、写真を撮って別れを惜しんだ。

さよなら、シェムリアップ、さよなら。

20時のフライトに間に合うようにスーは僕を空港に送り届けてくれるという。僕はホンダスーパーカブの後部座席で泣いていた。運転をしているスーも泣いていた。

来年の夏。next summer. 本当に無責任な言葉だ。けれどつい言ってしまった。僕はあの夏以降、シェムリアップには行けていない。この先行く機会はあるだろうか。自ら機会を作らなければ行かないだろう。約束は守れていないけれど、もう一度スーやコムに出会えるだろうか。

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さよなら、シェムリアップ、さよなら。
僕は手持ちの現地通貨をポケットから掴み出し、スーに差し出した。

「日本では使えないから、せめて受け取ってくれないか。ここまで送ってくれたし、それに、今日のご飯も全てご馳走になっているんだ。これは対価ではなく、気持ちなんだ。」

スーは差し出した手を頑なに戻さない僕に根負けして、涙を拭きながらクシャクシャの紙幣とコインを受け取ってくれた。

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僕はバックパックを背負い直す。
振り返ると、スーは僕が見えなくなるまで手を振ってくれていた。

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