死体を探しに、東京へ行った
夜、東京に来た。
ふと、死体を探そう、と、そう思い立ったからだ。
東京の事情にはあまり詳しくない。
銀座、六本木、渋谷、新宿、どこにいけば死体を見られるのか。
私は知らなかった。
とりあえず、東京駅に赴く。
東京に死体がある事だけは事実なのだ。
この国の総人口の、およそ三割は東京に住んでいる。
自ずと死体の数も多いだろう。海よりも、山よりも、東京にこそ、死体はある。
死体、ではない。
極めて生を感じない彼らも、生きる人の為のディスプレイとして存在している。
死の後の死として存在し続けるそれとは対極、とは言わないまでも、大きく異なる存在だ。
死体はなかなか見つからない。
初めからそう簡単に見つかるとは思っていないけれど。
地下に行けば何かを掴めるかもしれないと、頭を過ぎる。
しかしダメだ。
地下は煌々と明るく照らされているのが常。人々は地下を恐れるあまりか、それをギラギラ照らし尽くしてしまう。
きっと死体はないだろう。
ある程度人より優れているのではないかと、人並みな幻想を人並みに抱きながら、人並みに生きてきた。死体を見たところで何かを変えられる。そんな確信を持っているわけでは無いけれど、少なくともそれと自分の違いを見出せる気がした。
少し歩くと池があった。
東京にも池があるのか。
その黒々とした水面は不都合な何かを隠すにはおあつらえ向きだけれど、生憎隠された物を見つけるのは得意ではない。
幽霊の正体見たり、と言い聞かせる必要もないだろう。
死体すら見つけられないのに、幽霊が見つかるはずもないのだ。
交番に掲示された死亡ゼロの文字。
本来であれば喜ばしいことではあるけれど、先行きが怪しくなってくる。
いや、現時点で見つかっていないのだから、私が見つけられる可能性は高くなると考えたほうがいいのだろうか。
訝しげにこちらを伺うお巡りさんを傍目に、死体探しを続行する。
下を向きながら歩くのは苦痛じゃない。
夜中に出歩く人も少ないので、周りに気をつける必要もない。
止まれと言われ、止まる。
急いでいるわけではないのだ。
急いでいても、止まった方がいいのだろうけれど、急いでいなくても止まらない人の方が多い。
ふと道路脇に目をやると、そこに死体があった。
「止まれ」の表示をきちんと守ったのだろうか。
そこで止まり、そして止まっていた。
私も止まっている。
黙ってシャッターを切った。
目的を果たし、帰路に着く。
電車が動くまで、待たなくてはならない。
果たしてこれでよかったのだろうか。
帰りながら、色々なところを覗き込んでみたけれど、あれ以上の死体は見つからなかった。
多分私は、止まったままだ。
終わり
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