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リメイク版『華氏451』(2018)とトリュフォー版の比較考察

胸を張って言えるほどの自信作ではないのであまり大きな声で言いたくはないのだが、私はとあるディストピア小説を題材に卒業論文を書いた。
留学先で受けたディストピア作品を分析する講義が大変に面白く、もし私がこの大学に通っていたら、この教授のもとでディストピア作品について卒論を書きたい、と思ったほどだったからだ。(毎週1作品を取り扱うため、次週までに予習として1本の小説・映画を鑑賞してから授業に臨まなければならず、課題はかなりハードだった…懐かしい)

レイ・ブラッドベリ原作、そしてヌーヴェルヴァーグの巨匠、フランソワ・トリュフォーによって映画化された『華氏451』にも、その時初めて出会った。
1953年に原作が出版され、1967年に映画化された本作品は、本(活字)が禁止された近未来の物語だ。それが今、HBO作品として2018年に製作されたリメイク版がU-NEXT で観られるようになっているではないか。これは観ない訳にはいかないでしょう。ということで本記事ではトリュフォー版との比較を中心に、リメイク版『華氏451』について考察していくことにする。

簡単ディストピア史

その前に、ディストピア史について軽く触れておきたい。

映画 "Matrix" を始め多くのディストピア作品の題材になり、ディストピアジャンルの親とも言える作品は、古代ギリシャに遡る。プラトンの『国家論』だ。もっとも、そこから19世紀くらいまではディストピアというジャンルはなく、理想の世界について論じるユートピア思想が中心だった。つまり、「ここではないどこか」に理想の世界を見出し、こんな世界だったらみんなが幸せなのに、という作品が主だったのだ。

そのユートピア作品の方向性は時代によって様々に異なるのだが(長くなるので割愛)、18世紀頃にはユートピアへの希望を科学と技術の進歩に託すようになった。しかし、20世紀にはユートピア文学は形を変え、その目覚ましい科学と技術の進歩と、力を持った国家が結びつくとどうなるか、という警告を描くようになる。これがディストピア文学の始まりである。

ジョージオーウェルの『1984』を始めとする代表的なディストピア作品は、1930年代-1950年代にかけて数多く執筆される。この時期に起こったことといえば、2度の世界大戦と米ソ冷戦だ。戦争によって飛躍的な進歩を遂げた技術と、それを利用した国家による監視社会が生まれるのではないかという不安。そういった背景をもとに、社会に警鐘を鳴らすべくこの時代のディストピア作品は描かれた。『華氏451』もこの時代の潮流を汲む作品だ。

トリュフォー版との比較① 世界観

簡単にディストピア史を追ったところで、本題に入ろう。

私が本記事を書くに至った理由は、リメイク版『華氏451』では価値観や世界観が非常にうまくアップデートされていて、本が禁止されている世界を目の当たりにしたオリジナル当初の読者/観客の感覚を、形を変えて現代に甦らせていたからだ。

まずトリュフォー版とリメイク版とでは、冒頭のシークエンスから大きく異なっている。トリュフォー版の冒頭シーンでは、本を隠し持っている男の家に焼火士たちが唐突に押し入り、問答無用で本を見つけ、燃やしていく。「この世界は本を持つことが禁じられている世界である」ということをまず観客に知らしめるのだ。

一方リメイク版では、モンターグの暮らしが初めに描かれる。ユークシーに話しかけ、スクリーン上で "ナイン" と呼ばれるSNS的な、インターネットに代わるものをチェックする。リメイク版では、主人公たちの暮らしている世界がオリジナルとは異なることをまず観客に見せる。
それにしてもこの世界、半分くらいはもうすでに実現されている。世の中のIoT化が進み、その対応機器を導入していればアレクサに話しかけると大抵のことはやってくれるし、何もない空間にデジタルスクリーンを出現させて操作することもAR/MR技術によって可能になりつつある。途中、バーのような場所で人々がVRゴーグルをつけ、思い思いに楽しんでいるシーンがあるが、それだって今日では当たり前の娯楽として受け入れられ始めている。リメイク版の世界は今より少しだけ先の、実現しうる未来を舞台にしているのだ。

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もっとも、トリュフォー版では本というより活字を排除した世界を描いているため、紙媒体での情報は存在する。モンターグは文字のないコミックだけの新聞のような物を読み、逮捕者の情報も写真とスタンプによる記号のみの書類だ。また、本がないから、モノレールですることがなく手持ち無沙汰に腕を組む人々が映し出される。

一方でリメイク版では活字自体は存在しており、本や紙媒体のみならず、デジタル化されていない全てのものが規制対象となっているようで、その最たる例が本、という印象だ。ここに、トリュフォー版とリメイク版の大きな違いがある。
トリュフォーの時代には存在しなかったスマホやPCの普及により、私たちの世界でも紙媒体そのものが廃れ始めているし(廃れるというかむしろペーパーレスが推奨されている)、電車で本や新聞を読んでいる人もごく少数だ。今日、多くの人々がアクセスしているのはスマホの画面を通したデジタル情報であり、かく言う私もこの記事を通勤電車の中でちまちまと書いている。

ここで、トリュフォー版とリメイク版では、本(活字)を規制する理由が異なっていることに気がつく。

トリュフォー版では、国家は文字を排除し人々に何かを記したり読むことをさせないことで、思考力を奪い社会に対する不満分子を抑圧しようと活字を禁止した。構造としては『1984』と同じ体制と言えるだろう。

リメイク版でももちろんその側面はあり、"ナイン"上の情報も政府によって検閲されているものではあるが、本を排除する理由の根本は「デジタル上に(人々が幸せになるには)十分な情報があるから」であるように思う。つまりは必要ないのだ。紙媒体の、古い価値観で書かれた書物など。旧体制の中で生まれた不安や恐れ、失恋の悲しみなどは理解する必要がないものだし、存在する必要のない感情や知識を人々が知ることで、不満分子となっても困る。 必要な情報は全て"ナイン"上にあるのだから。

この構造は、私たちの社会にも当てはまる。わざわざ本屋で本を選び時間をかけて読まなくたって、文学作品のあらすじや要点はネットにいくらでも出ている。先日「ファスト映画」の逮捕者が出たが、人々はより簡単に、わかりやすく、早く情報にアクセスすることを求めているような気がする。

この点において、リメイク版は世界観を非常にうまくアップデートしているのだ。トリュフォー版では国家による統制、監視に対する不安をメインとして描いていたのに対し、リメイク版ではそれに加えて、高度にデジタル化された現代社会に対する不安も取り入れている。

リメイク版で旧時代を表すアイテムとして登場するのは、「巻き戻して返却を!」というレンタルビデオテープ、黒電話のダイアル、ポストカード、カメラのフィルム。これらは私たちに当事者意識を持たせるアイテムとして非常に効果的である。この作品を観た人々の多くにとって、それらは私たち自身が「昔は使っていたけど今はもう見ない」ものであり、今ではそのほとんどが、スマートフォンの中にあるものだから。

特にビデオテープは、その変遷を体感しているが故に、「昔はあったが廃れたもの」という認識が強い。私が小さいときには確かにツタヤでドラえもんの映画シリーズを借りていた記憶があるが、それがDVDになり、今やツタヤにはほとんど行かなくなり、もっぱらNetflix、Amazon Prime、U-NEXTにお世話になっている。

ビデオテープ、デッキ、テレビがなくてもPCやスマホで場所を選ばず映画が観られることは便利である。一方で、その構造は「Netflixにないなら観ない」という意見にも繋がりやすい。実際、ツタヤはこの数年でものすごく店舗数を減らした。どの配信にもなく、唯一ツタヤだけが取り扱っている作品はたくさんあるのに!

とは言え、別に私は「Netflixよりもツタヤに行こう!」とか言うつもりでこの記事を書いているわけでは全くない。便利なのは良いことだし、引きこもってNetflixを観る休日は最高だ。

けれどその便利さの裏には「デジタルでないものは廃れていく」という可能性も常に孕んでいる気がするのだ。本が禁止されている、という世界観にこの懸念を取り入れた点に置いて、リメイク版は新しい。

同時に、反体制側=本を読む人々の行動も、トリュフォー版とリメイク版では違いがある。

トリュフォー版では、人々は本が好きだから、禁止されていても個人の楽しみとして隠し持っている(個人の楽しみとして利用するもので、それが合法である地域もあるが、別の地域では政府に利用が禁止され、所持しているところが見つかると没収・逮捕される嗜好品って、あるよね?)。ところがリメイク版では、うなぎ(eels)と呼ばれる反体制側の人々は自分で本を楽しむだけでなく、"ナイン"上にアップロードして読者を増やそうとする。リメイク版の「うなぎ」達にとって、本は自分たちの密かな楽しみとしてだけでなく、知識の宝庫なのだ。だからナイン上の情報だけで満足している市民をRe-educate しようとしている。この行動は、リメイク版を観ている私たちに向けられているメッセージのようにも感じるのだ。

トリュフォー版との比較② 登場人物

さて、トリュフォー版と比べてキャラクターに深みが増したのは、モンターグの上司である燃火士のキャプテンだろう。このアンビバレントと葛藤の塊のようなおじさん、嫌いじゃない。トリュフォー版のキャプテンは心から活字なんてものは必要ないと思っているが、リメイク版では本を燃やす職業に就いていながら本への興味を抑えることができず、面では完璧に「鬼教官」を装っているが、その裏では密かに文学を楽しんでいる。

彼のセリフの多くは文学作品からの引用であるが、最初の「洞窟にいて見渡すことが許されないならば、目に入るのは炎の影だけだ」というセリフはどう考えても先に述べたプラトンの『国家論』からの引用である。最初にこの引用を用いるのはセンスが良いなあと思うばかりだが、果たしてこれを皮切りに何度も出てくるキャプテンの文学的セリフの引用元がわかる人は、一体どれくらいいるのだろう。

正直に言うと、私は半分もわからなかったかもしれない。勉強不足極まりなく、偉そうにこんな記事を書くのはやめようかとも思ったが、キャプテンのセリフの意味がわからず小首を傾げるモンターグの姿は私たちの姿でもある。自由に本が読めるはずの世界であっても、そのほとんどを知らないことを観客自身に意識させる二重構造となっているのだ。(全部わかったよ、常識でしょ、という方には全くもってその限りではないのでお恥ずかしい限りだが、少なくとも私は自身の勉強不足を痛感しました…)

そのキャプテンが、老女の部屋にある本を見て、それらが禁止図書になった経緯を話していく。黒人に差別的だったから、女性蔑視の内容が含まれフェミニストに反発されたから…など。そう聞くとうっかり納得してしまいそうにもなるが、そもそもトリュフォー版自体、フェミニズム的批判の的にもなっていたのだ。

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トリュフォー版ではモンターグに妻がいて、その妻は体制に従順な人物として描かれていた。妻だけでなく、その友人の女性3人も、社会に疑問を持たず、本の価値を知らず、中身のないTV番組に夢中で、睡眠薬(?)をオーバードーズして倒れていたところをモンターグに助けられるシーンもある。

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この、男性より無知で、従順な弱い存在として対比されている女性像がリメイク版では登場しない。
昨今、ディズニー映画のリメイクが多く製作されているが、現代では問題とされる価値観を含む作品をリメイクすることも、作品の持つ大きな意義のひとつである。時代にそぐわないからと排除するのではなく、その反省から新たな作品を生み出すことの重要さも、このリメイク版『華氏451』が体現している。

つまり何が言いたいのかというと

仮にも私の専門(のつもりだった)分野であったため、今回はやけに長く記事を書いてしまった。長々とトリュフォー版とリメイク版の比較について書いてきて、ここまで根気強くお付き合いしてくれた方々が一体どれほどいるのかはわからないが、つまり何が言いたかったのかというと、リメイク版の『華氏451』は、オリジナルの世界観を残しながら価値観や文化を現代版にアップデートしたことで、今現在の観客に対して問題提起をして当事者意識を持たせることに成功しているのだ。

『1984』や『すばらしい新世界』など代表的なディストピア作品は、文学作品としてはもちろん素晴らしいが、ディストピア的感覚としては多少古く感じる部分も否めない。今はその価値観自体廃れてしまったよねとか、近未来として描かれていた技術はもう当たり前に存在しているよね、とか。そういった部分をごっそりアップデートしたことで、当時の人々がディストピア作品を読んで感じたであろう危機意識を、この21世紀を生きる者の感覚として再度捉えることができる。

さらには、ドラえもんの秘密道具的な想像力の産物であった近未来的社会を、あともう少しで実現し得る未来に設定したことも、この作品が現代におけるディストピアとしてうまく機能している理由のひとつでもあるように思う。「本がなくなってもスマホがある時代」だからこそ、『華氏451』はリメイクされることによってまた違う意味を持ち、リメイク版はこの時代背景の変化を非常に上手く捉えていると思うのだ。

ただし、「本の人々」が暗記している本は、トリュフォー版の方がセンスあったなあ、と思う。気になる方はぜひトリュフォー版を観ていただきたい。

一方で、このリメイク版にも課題はある。「本の人々」の中で、アジア系の女性が毛沢東の『毛主席語録』を暗記しているが、別にアジア系だからといって中国の文献を暗記しなければいけない理由はないはずだ。彼女は作中で流暢な英語を喋っているのに。映画作品における人種と役柄のステレオタイプはまだまだ根強い。『華氏451』に限らず、いつの日かこの価値観がアップデートされた作品が当たり前に制作されることを願う。

わたしの独り言

お、『華氏451』の記事じゃん、と思ってこの拙作にたどり着いた方も、この長さに辟易してそっとページを離れ、ここまでたどり着いていないと思われるのでここは私の独り言としてしたためておこうと思うのだが、知識とか教養なんてものは、得てしてコスパの悪いものなのだ。一つの作品について論じるのに必要な知識は膨大であるし、先ほども述べたが、リメイク版『華氏451』の作中の引用を全て理解するにはある程度の文学に関する教養が欠かせない。似たようなことは『デッド・ドント・ダイ』の記事でも書いたけれど、知識や教養というものは時間をかけてようやく形になるもので、ネットで調べた付け焼き刃な情報では真に何かを理解することは難しい。

それとデジタル情報に頼ることは別だ!というのはごもっともである。別に電子書籍でも必要な知識を得ることはできる。しかし、全ての作品がデジタル化されているわけではないことも事実であり、結局のところ人気がなく売上に繋がらなそうな作品はどんどん後回しにされる。大衆人気があることと、作品の価値はまた別問題だ。その間に、デジタル化されていない作品が廃れていってしまったら、私はとても悲しい。

ネット注文も便利であるが、店舗に足を運ぶのとはやはり違うとも感じる。ネットでは欲しいものをピンポイントに買えるが、それだけである。関連するおすすめ商品が示されることもあるが、そういうことではないのだ。
参考書を買うために本屋に寄り、お目当ての本とは別に店頭で平置きにされていた雑誌に興味を持ち一緒に購入するなんてことは、ネット注文では起こり得ない。

便利さの恩恵に預かるのは決して間違っていることではないが、たまには遠回りして時間をかけるのも、悪くはないんじゃないかと思う。





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