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“いい子”のレールを走ってきた私が、自分の人生を愛せるようになったキセキ 【自己紹介】

はじめまして!ポジウィルでトレーナーをしております、若山彩香です。
このnoteでは自己紹介を兼ねて、私のこれまで、そしてポジウィルでトレーナーとして働く理由をお話しいたします。

この社会で生きづらさを感じている人へ、一人でも多く届きますように。

私の生い立ち

父は仕事のできる人で、経済的に不自由のない生活をさせてくれました。当時専業主婦だった母は、学校から帰るといつも家にいてくれて、3つ下の弟も素直で可愛い。

客観的に見て、とても恵まれた家庭。なのに私は、いつも何かを恐れて生きていました。

幼少期の私にとって、母はとても厳しい人でした。一般的な礼儀作法はもちろん、勉強や習い事での成績、お友達との関わり方に至るまで、私の言動を細かく把握。母の意向に沿わない部分については、否定的な言葉で叱りました。

一方、父は私の教育に全く関心はありませんでした。しかし、家の中で騒がれるのが非常に嫌いな人で。だから、私が母に怒られていると、決まって自室から出てきて、「うるさい!!!」と一喝。それに母が言い返すと、たちまち激しい夫婦喧嘩が始まります。

大きな声、モノが壊れる音。

幼い弟が止めに入る中、私はただ、目の前の光景に泣くことしかできず。

私が母に怒られることで、二人が喧嘩をしてしまう。
こうなってしまうのも、全部私のせいだ。

私なんか生まれてこなければ良かった、と何度思ったことか。
でも生きるしかないのであれば、せめていい子でいないと。母が求める子供でいないと。

…母が私を厳しく育てざるを得なかった理由が今では分かりますし、父も若くして責任ある仕事について、その重圧は大変なものだったのだろうと思います。そしてもちろん、毎日こうだったわけではなく、4人仲良く食卓を囲む日があったことも確か。

それでも、「母が求めるいい子でいないと」という認知は強く私に刷り込まれ、以降の人生を形作っていきました。


”大正解のレール”に辿り着くまで

そんなこんなで小学校に上がる頃には、私の判断基準は「母は私に何を求めているのか」が重要な指標になっていました。

小学校時代の習い事も、中学受験の志望校も、部活選びも。
母が「こうしなさい」ということはありませんでしたが、その分私は、間違えないように、 踏み外さないように。重要な意思決定は、あの手この手で母の意向を確かめながら、「正解」を探し当てて進んできました。

それは高校の進路選択でも。
もともと私は心理カウンセラーになりたいと思っていたのですが、母からの反対を受け、すぐに撤回。もう一つの選択肢も玉砕したのち、3つ目に出したのが”検察官”という職業。これが母に大ヒットしました。
全面的な応援を受け、大学受験では、第一志望とした国公立大の法学部へ合格。

こうして私は、「大正解のレール」に乗ることに成功したのです。

でもなぜか、そのレールを走れなくなった

大学入学後、ひとり暮らしを始めた私は、やっと自由を手に入れたと言わんばかりに、やりたいことを全部やろうとしました。

体育会の女子バスケ部に入って、司法試験のための勉強もして、バイトも頑張って、友達との時間も大切にしよう。

前向きに見えるものの、1年が経った頃、徐々に異変が現れました。

・頑張りたいはずなのに、部活に行きたくない。
・勉強しないといけないはずなのに、大学に行けない。

気づけば、大学にも部活にも行かず、布団の中で一日の大半を過ごし、週3回程度、夕方からバイトだけ行く。そんな半引きこもり状態になっていました。

今思うと、「自分が本当にやりたいこと」と「いい子でいるために、やらなくちゃいけないと思っていること」の区別がつかず、その乖離がMAXまで広がっていたんだと思います。
「こうあるべき」に縛られながら、自分の感情に嘘をついて頑張っている状態が、限界を迎えたのでしょう。

とはいえ当時の私は自分のことを客観的に捉えることもできず、自分を責めました。
なんてダメな人間になってしまったんだ。やろうと決めたことすらできない、どうしようもない人間だ、と。

そうして逃げるように部活を辞め、司法試験も諦め、卒業するためだけに何とか授業に出る。大学2年生の後半からは、そんな生活を送るようになりました。

再起、そして、大脱線。

司法試験を諦めたとはいえ、自分に期待したい気持ちが少しばかり残っていた私は、就職活動でなんとか自分の人生を立て直そうとします。

とはいうものの、自分のことを考えるのはあまり好きではなかったので、自己分析もほとんどできず。最終的には、「教育・人材業界 × 自己成長!」という何ともざっくりとした軸で就活を進め、無事、軸にぴったりの企業から内定をいただきました。

成長軸で選んでいるので、内定者の同期も成長意欲の高い人が多くて。
「このままだったら入社前に置いていかれる」と焦った私は、大学4年生の後半から、関西の教育系ベンチャーでインターンをすることにしました。

これが、人生最大の転機になります。

「社会人になるまでの半年間で、同期についていけるくらいの力をつけられたらいいかな」
そんなフワッフワな動機でインターンを始めた私に、社員さんからの言葉が突き刺さります。

「若山って、なんでその内定先に入ろうと思ったの?」
「自己分析ちゃんとした?客観的にみて、少なくとも今の若山には合ってないと思うんだけど。」

ドキッとしました。
自己分析なんて、やっていないに等しい。
正確には、やろうとしたけど、全然できなかった。

「手伝うから、一緒にやってみる?」

そうして私は、自分の人生に初めてちゃんと向き合いました。

そして、この時やっと、幼少期の家族の影響、母親からの承認を求めて走り続けてきたことに気がついたのです。

大泣きしました。自分の人生が恥ずかしかったし、大嫌いだと思った。
何を、頑張ってきた気になっていたんだろう。
自分の意思で選んだことなんか、何一つとしてないのに。

でも、そうではないと社員さんは言います。
きっかけは何であれ、頑張ってきたのは自分自身だと。

そして、自分の中で大事にしてきたこともあると。
検察官という職業に憧れた理由は?
半分引きこもりながらも、バイトだけは前向きに行けたのは何故?
当時、私の生きる力になっていた塾のアルバイト。私は何にそんなに価値を感じていた?そこで発揮できた自分の価値は?強みは?

この自己分析を経て、私は迷いに迷った結果、内定先を辞退させていただき、留年して就活をやり直すことにしました。大学4年生の、1月のことです。

(いつの間にかレールを大脱線していた私に、両親は大混乱・大激怒しましたが、すでに意思決定済みだった私に諦め、紆余曲折ありつつも黙認してくれました。多大なる迷惑をかけたこと、のちに全力で謝罪し、和解しています。)

今、ポジウィルで働く理由

2度目の就活は中々ハードでしたが、それでも新しく見えた軸に沿って就活を進め、前職であるエス・エム・エスにご縁をいただきました。

入社後は同期や先輩、上司など本当に人に恵まれ、自分の大切にしたいことを大切にしながら仕事ができるという、ありがたい社会人生活を送ります。

キャリアとしては、人材紹介の部署を経験後、自分の希望や会社の状況に合わせて何度か異動をしました。様々な経験を積ませていただく中で、仕事に対する価値観が形成され、徐々に深まっていったように思います。

そして、最後に所属していた企画の部署で、上司から期待をかけてもらい、マネジメントも目指して欲しいというありがたい言葉をいただきました。素直に嬉しかったものの、同時に、自分の中で違和感も生じました。
果たしてこの企画の仕事で、その役割を担いたいんだっけ?
社会人として経験を積んで、今の自分はこれからどうしたいんだっけ?と。

色々考えた末、転職活動をすることにしました。
そのタイミングで、改めて今までの人生を振り返る中で思ったことは

・私は、自分の意思で人生を決めるようになって初めて、自分の人生を愛せるようになったな
・でも、それには人の力が不可欠だったな
・今まで、本当に色んな人に支えてもらってきて今の私があるな
・人って、人との関わりの中で変われるものなんだよな

そんな中、ポジウィルに出会い、会社のMISSION、そして創業に至った代表の想いを知りました。その瞬間、自分の人生、自分の想いが、ドンピシャ重なった気がしました。そして今、ご縁があってポジウィルのトレーナーとして働いています。

生きづらさを感じやすいこの社会の中で、
一人でも多くの人が、自分の人生をまるっと愛せるようになれば、
もっともっと、楽に息ができる社会になるはず。

一人では難しくても、人は、人との関わりの中で変わっていけるから。
一人ひとりが、自分の人生を、自分の意思で、自信を持って歩いていけるようになってほしい。

だからこそ私は、トレーニング期間を通して、
「過去を見つめ直し、受け入れ、これからどうありたいか?を考える」
その過程に、全力で伴走したいと思っています。

最後までお読みいただきありがとうございました。
皆さんとお話できるのを楽しみにしています!


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