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苦しさからの脱出(本音で生きる大切さ)

”障がい者”のイメージ

以前の記事にも書いたように、私は息子が生まれるまで”障がい”を持つ人との交流はほとんどありませんでした。

ほとんど、と表現したのは一時期に知的障がいを持つ方と耳が聞こえない親子とほんの少しの間ですが一緒に生活する機会があったから。

知的障害の方はその中でも軽度でしたし、耳が聞こえないといっても体は健常の方。つまり”寝たきり”の障がいを持つ人と交流することはなかったということ。もちろんテレビでみることはありました。

だから、と表現するのが正しいかわかりませんが、どうしてもイメージ的に障がいを持つ寝たきりの人は”気の毒””かわいそう”そうみていました。

自分を苦しめた”その思い込み”

テレビが悪いとは思いませんが、どうしても”普通”と違うわけですから”違う”と分類されるわけです。どうしてもそう映し出される。100%とはいえませんが”かわいそう””大変”と受け取る人がほとんどではないでしょうか。

私もそのひとりで、障がい者は普通の生活ができないし、経験できることも限られている。それはとても残念なことでかわいそう。不憫。

そう思っていたので自分が当事者になった時に当たり前にそれをそのまま息子に当てはめたのです。

難治の病気・障がいを持って生まれた息子はかわいそう、不憫、残念。

それが思い込みであることはのちに気づくのですが、息子が難治の病気と知った時、手術によって障がいは免れないと知った時、そのあとの数年間はそれに気づくこともなく、それに苦しめられた、、というよりは自ら苦しい方を選んでいたんだなぁと思います。

”障がい者はかわいそう、不憫、残念”それをフィルターに持っているから”障がい者はかわいそう、不憫、残念”という世界に映る。

かわいそう、不憫、残念というワードはシンプルに”チカラが入らない。”

いつも悲しいし、虚無感でいっぱいだし、先が見えないし、不安だし。そんな状態誰だって好まないけどその時はそうでしかいられなかったんです。フィルターがソレだったから。

無駄なことは何一つとしてない

今は”障がい者”をみても息子をみても”かわいそう”という感情はゼロです。不憫、残念も、これっぽっちもない。昔の私が聞いたら疑うでしょうね(笑)それほど数年前の私は息子に対して”かわいそう”や”不憫”と思っていて、それによって自分自身がひどく落ち込んでいたから。

でも今心は軽やかで清々しい。そう感じられるのもあの頃の苦しい経験があったからだと、今は思えます。

全て点のように見えるけどやがてそれが繋がって線になる。そんな感覚を息子を通して経験できた。だからといって辛い経験を”先に繋がってるだろう”と俯瞰する必要はなくて、悲しいも嬉しいも素直に感じることが豊かさを取りこぼさない生き方だと思うのです。

わたし自身それができて初めて”人生に何一つとして無駄なことはない”ということを当たり前に思えるようになったんです。

本音で生きること

もちろん普通の育児も大変ですが、障がい児育児はもっと大変です。大きくなっていくことに普通の育児だと喜びを素直に感じると思うんですが障がい児の場合は喜びと同じくらいかもしくはそれ以上に大変さを知ります。

大きい体、しかも力が入らない体を抱っこするのは本当に大変です(汗

それを当たり前のように毎日やっているお母さん、家族は本当にすごいんです。これは「障がい児を育ててるからすごい」という意味ではなく、単純にすごいことをしているということです。これを強調するのは私自身がこのことに気づいて、そしてそれによって生きることがラクになったから。

それまでは「私が頑張らなければいけない」「私がなんとかしなければいけない」と一人で頑張って誰かに助けを求めることができずにいました。頑張ること自体は悪いことではないのですが、その時の私の本音は、本当は不安、怖い、助けてほしい、でした。その本音を隠して頑張ることは身も心も滅ぼしてしまいます。

”medel me”に込めた想い”自分を大事にする”とは”本音で生きる”ことです。


もしいま、障がいを持つ我が子がかわいそう、不憫と思い胸が苦しいのならまずは大変であることを認めることです。

それを甘えや怠けと思わず素直に認めることでフィルターが変わり、息苦しい世界から脱出できます。

そしてそれは病気、障がいが"治らなくても"必ず実現できるという真実をちょっとでも知っていてほしい。そうおもいながら今日も発信しています。

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