見出し画像

俺の大切なその人


 このお話は二話目です。一話目はこちら

ー扉の中ー

恐る恐る振り返った。

その人は、悲しそうな表情で俺を見ていた。

「やっと戻ってきてくれた。ずっと、一人でここで待っていたのよ」

その人にそう言われ、俺は思い出した。

ずいぶん昔にその人を取り残したまま、俺は扉を閉めてここから出て行った。

そして、こんな場所があることすら、もうとうに忘れ去って居たと言うことを。

毎日はキラキラと輝いていて、俺は神経をとがらせて、俺の考え得る限りの最善策を打ち出しながら、日々を戦っていた。毎日が仮面舞踏会で、毎日奇抜な仮面をつけて、誰よりも華麗に踊ることに心血を注いでいた。

それでいいと思っていた。

それがいいと、思っていた。

何十年もそうして踊っていたのだが、ある日俺の靴が壊れたのだ。

無様に壊れた靴を取り替えるために、俺は久しぶりにここに戻ってきていた。

丁寧な暮らし、優しく流れる時間。

その人が大切にするのは、煌びやかな仮面舞踏会とは無縁の空間。

俺はしつこく、そんなものを否定し続けていた。平凡でつまらない、何の変哲も面白みも刺激もない、無様な生き方だとすら、感じていたのだ。


だけどどうだろう。

壊れた靴を脱ぎ、仮面を外し、煌びやかな衣装を脱いだ俺は、いつの間にか、薄氷を踏むような緊張から解き放たれていた自分に気がついた。


そうか。ずっと俺は、薄氷の上で踊っていたのか。


気づけば、そちらの方が、よほど無様な姿に思えた。

子どもっぽいイラストを描くその人と、薄氷の上で仮面をつけて踊る俺と、さあ果たして、どちらが今、俺の目には無様に映るのだろう。


俺はその場にしゃがみこみ、床に手をついて項垂れた。

間違いない。無様なのは、俺の方だった。

誰も見ていやしないダンスを、スポットライトを浴びている気になって、得意げに踊っていたのが俺の姿だ。


「ねえ、あなたは本当に良く頑張ってきたよ。もういいの。もう、薄氷の上には戻らなくていいのよ」

その人は、俺に向かって優しく手を差し伸べた。

「もう自分を責めないで。暖かいお布団の上で、ゆったりと休んでいいのよ」

俺はぎゅっと唇を噛み締めた。

そんな生ぬるいことが俺に許されていいのだろうか。


差し伸べられたその人の手を、暫く、まるで奇跡を見るかのような目で見つめていた。

その人は、優しい、とても優しい声でもう一度口を開いた。

「私、嬉しいの。あなたがここを忘れずに居てくれて。扉をあけて戻ってきてくれて。もう一度、あなたに会うことができて。」

そして、その人は涙を浮かべたまま、ふんわりと微笑んだ。

「私が、消えてしまわなくてよかった。だって・・・」


俺は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「だって、私はあなただもの」


俺がその人を閉じ込めたのは、俺の心の扉の中。

締め切ったまま、頑丈に鍵をかけて、なきものにしていた扉。


何故閉じ込めて居たのかは、もう忘れてしまった。そんなことすら全て、忘れ去ってしまっていた。


その人は、ゆったりとお日様のように微笑んだ。

もう忘れかけて居た、のんびりとしていて、とても緩くて危機感もなくて、好きなことを夢中で時間も忘れて没頭する姿。しているのは、創作だとか歌を歌うだとか、ふわふわとしたようなことばかり。

そうだ。こんな事では厳しい社会では生き残っていけないだろうと考え、俺はそんな自分自身を切り離して封印していたんだった。


「ねえ、もういいから。もう我慢なんてしなくていいのよ」


その人は、もう一度俺に手を差し伸べた。


「この手を掴んで、元に戻ろうよ」


どう言うことだ。

俺は差し伸べられた手をじっと見つめる。小さくて華奢な手だ。

そんな華奢な手を掴んで、俺は果たして大丈夫なのだろうか。俺は何度目かになる躊躇を表情に浮かべる。


「いいよ。無理もしなくていいの。でも、私はこうして待ってるから」


優しい微笑みで、その人は俺に手を差し伸べ続けた。

あんなに、罵倒したのに。

あんなに、否定したのに。

あんなに、傷つけたのに。

その人は、優しい微笑みを俺に向け続けている。


「だって、私はあなただもの」


俺があんなに拒絶したのに。

閉じ込めたのに。

封印したのに。

消そうとしたのに。


その人は、俺の全てを受け入れている。


「だって、私は、あなただもの」


小さくて細い手に、俺はそっと自分の手を伸ばした。

伸ばされた俺の手も、やはり小さくて細くて。


そう、その人とまったく同じ手の形をしていた。


「今まで済まなかった。可哀想なことをした。許して欲しい。」


俺は、初めてその人に対して、謝罪の言葉を投げかけた。


「今まで、忘れて居て申し訳なかった。俺を許してくれるだろうか。」


その人は、まっすぐに俺を見つめた。


「初めから、許さないなんてことはないのよ。あなたがどんなに私を否定したって、私はずっと、あなたと一緒に居たのだから。」


その人は、伸ばした俺の手を、しっかりと握りしめた。


「これからも、ずっとずっと一緒に居よう。もう、大丈夫。」


握り合った手のひらから、淡く暖かな光が流れ出した。

その光は、俺とその人を包み込み、ひとつの大きな光となった。





「おかえり」


その人は笑った。


「ただいま」


私は、嬉しくて笑った。



光の安らぎ中で、私の手から仮面が滑り落ち、床に小さな音を響かせた。




終わり