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交流なのか一方通行なのか

とある建物の中をぶらぶらしていると、ペットロボットらしきものがいて、そこに女性がひとりしゃがみ込んでいた。


そのペットロボットは、クゥンクゥンと甘えすがるような動きをしている。
そして、そのペットロボットを見つめる女性は、とても愛おしそうにしていた。


それを見た私の心は、崩壊寸前になった。


様々な情報が心の中を駆け巡ったからだ。


ロボットは人間がプログラミングした無機物だ。
もちろん、映画などと同じように、スクリーンという無機物に映し出される映像に、感情が揺さぶられるのがまた醍醐味ではあるので、甘えすがるような見た目のロボットに心が動かされるのも、それほど不自然な事ではない。


でも。
もしもこの先、人間関係が煩わしいと感じる人たちが、ロボットに愛を向けて生きることを選んだらどうなのか、と。

その光景を見た一瞬でそこまで思いが至り、キミの悪さに思わず目を背けた。


それは、家から一歩も外へ出ず、スクリーンに映し出される映像を見て一生を終える事に等しくないか?

まさにそんな映画「マトリックス」が昔あったよね。


自分が眺めたものに感情が揺さぶられる。
これは、感情の一方通行だ。

本を読んだり漫画を読んだり、映画を見て起きる事。
とても素敵なことでもある。


だけど、生まれてから死ぬまで、本しか読めなかったらそんなの楽しくない。


庭に生えていた草が、春になったら花を咲かせる。
それを眺める驚き。
花のいい匂いを嗅ぐ楽しさ。
それは、花という生き物との交流になる。


強い風の日に、茎が折れてしまった花を見つけて、家の中の花瓶に活ける。

そこには、生命の交流があるように思う。


そこまでの思いを一瞬で至らせたのかもしれなかった。


一方通行の疑似体験は、その先にある交流の養分になる。

CDや配信で聴いて気に入った曲は、コンサートに行って生の演奏を身体全体で聞く。
音の振動を浴びながら聞く音楽は、ヘッドフォンで聴くのとは全く別物だ。


画面で眺めて可愛いと思ったパンダを見に、動物園に足を運ぶ。
むしゃむしゃ食べてる姿を見れば、画面ではわからなかった笹の匂いやフンの臭いもしたりする。

もしかしたら、自分に見られてる事に気づいたパンダが、くるりと背中を向けてしまうかもしれない。

天気が良ければ、陽射しで全身が温まる心地よさを感じたり、吹き抜ける風の心地良さを感じたり。


ロボットの作られた鳴き声や表情は、あなたがどんな反応をしようが、お構いなしだ。

撫でようが、放っておこうが、変わらずにクーンクーンと甘えるように鳴く。


初めはそれが愛おしいと感じるかもしれない。
でも、あなたがどんな様子でいても、決められた同じ態度しか取らないロボットを見ているうちに、そのロボットの目の前に、実は自分なんて居ないのかもしれないと感じ始めはしないだろうか。

もしかしたら、特定のアクションで悲しがったり喜んだりもするのかもしれない。

それにしても、それは交流ではないのだから、早かれ遅かれ反応の限界は来る。



交流とは、生命あるもの同士のエネルギーの交わりなのかもしれない。

咲いた花と、それを愛でる人の交流。
音を奏でた人と、それを聞く人の交流。
見られるパンダと見る人の交流。


何故、ゾッとしたのかなと考えているうちに、そんなことに思いを至らせた。

きっと私は、ペットロボットの前にしゃがみ込む女性と、知らないうちにエネルギーの交流をしていたのかもしれない。