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雨上がりの部屋に燻らせた炎

美雪には、学生時代からたいそう渋い趣味があった。
いわゆる「お香を焚く」というもので、はじめて興味を持ったのは雑貨屋さんの店頭で香りを嗅いだ時に気に入ったことと、立ち上る煙の不定期にゆらめく動きが気に入ったことだった。
早速お小遣いでお香の箱を買うと中には香立てが入っており、以来美雪は様々な香を買い集めた。

幸い家族にお香を嫌がる人は居なかったので、部屋でも居間でも自由に香を焚いては楽しんで過ごしたのだった。

そんな美雪も大人になり、一人暮らしをするようになった。

「なんか部屋がジメッとしてきたなぁ。」

美雪はふと、そう呟いた。最近、そういう季節になってきたのを肌で感じる。
気づけば今年も美雪の好きな、カラッと晴れわたる青空の季節はあっという間に過ぎ去り、ここのところは毎日窓にあたる雨音を聞きながら過ごす、少し寒い日々がしばらく続いていた。

そんな時は、部屋の片隅で煙を燻らせることにしている。

お香にもいろいろある。
古くは平安時代の貴族たちが好んだという練香。これは香の成分を練り込んだ粘土みたいな丸い玉なのだが、炭を熱して灰の中に埋めて、耐熱ガラスの上にその練香を置き、その熱でほんのり香りを燻らせるという、たいそう優雅な香だ。
これは炭を熱するのがちょっと面倒なので、なかなかやらないが遥か昔に思いを馳せるには最高の香だ。

美雪がよく使うのは、一般的にお香と呼ばれている火をつけるタイプだ。
円錐やお線香タイプの細長いものなどがあるが、どちらも火をつけて煙を燻らせるもので、だんだんに香が灰になってゆくのもまたいとをかしだ。

今日はどの香りを焚きしめようか。
そう思いながらウキウキと香炉を準備し、香を入れている引き出しを開けると、ふと引き出しの片隅に無造作に置かれた袋が目に留まる。

「あれ? これはなんだっけ。」

袋を開けると、中にはカラカラになった葉っぱが何枚も入っていた。その葉からは独特の強い香りがして、ちょっと持っただけで指先にはすぐその香りが移っていた。

「うわっ、すごっ」

なんとも言えない個性的な香りだったが嫌ではない。暫く考えているとふいに、この葉を入手した経緯を思い出した。

香がこんなにも好きなのにもかかわらず、美雪が選んだ仕事は玩具専門店の販売スタッフだった。子どもが好きだったことと人と接するのが好きだったことから、接客業を選んだ。それなりに楽しい日々を送っていたある時、こんな事があったのだ。

「洋介、どれにする?」
「うーん、うーん、こっちもいいんだけどこっちもいい! パパ、両方はダメ?」
「両方はダメだ。どっちかひとつ、洋介がより好きな方を選んだら。」
「えー、決め切れないよ〜」

小学生の男の子が、父親と一緒にフィギュア売り場で先ほどからこんな会話を繰り返していた。どちらも人気の特撮系フィギュアで、あの位の年頃の男の子なら夢中になっているようなものだ。確かに甲乙つけがたいくらいどちらも人気がある。

「じゃあ、ひとつづつ手に持ってみてごらん。持った時にどっちがより嬉しく感じる?」
「えー、どっちかなぁ。」

洋介くんは、まずひとつを右手に持ってじっと眺め、それを置くと別のひとつを右手に持ってまた、じっと眺めている。それを2、3回ほど繰り返し、また唸り声をあげた。

「決め切れないよ、どっちも同じくらい!」

洋介くんはフィギュアを持ったり置いたりしながら、悩み続けている。お父さんはとにかく両方買ってあげる気はないようで、なんとかひとつを選ばせようと頭を捻っては色んな問いかけを息子にしていた。きっと息子に”自分のいちばんを選ばせる”という体験をさせているのだろう。
そう思って遠目に眺めていると、その子の母親らしき女性が二人の傍から離れてこちらにやってくると、近くに置かれたベンチにため息を吐きながら座った。

「はぁ、もう面倒だから両方買ってあげたらいいのに。クリスマスプレゼントの前渡しにでもするって言ったらどうかしら。どうせクリスマスだってああなるんだから。」

美雪に聞かせるとも聞かせないとも微妙な距離感でそう独り言を言い始めた女性の方に歩み寄り、美雪はその母親の暇つぶしに付き合うことにした。

「息子さん、先ほどから熱心に選ばれてますね。」
「そうなのよ。いつもそう。あの子は優柔不断でね。だから主人もああして決断させようと頑張っているのは分かるんですけどね。毎回あれだから付き合い切れないわ。」

子供と一緒にいる時間が長いのは母親の方だろうから、たまに付き合う父親とではまぁ熱量も違うよね、などと思いながら、美雪は母親の言葉に微笑んで頷いた。

「じゃあ、今日のところはご主人にお任せして、お母様は少しこちらで羽を伸ばして行かれてくださいね。」

美雪は微笑みながらそう言って、他愛もない世間話をはじめてみた。母親も乗ってきて、話は周辺で美味しい紅茶を出すカフェの話から、最近最寄り駅構内にできた謎のオブジェの話、先月その母親の企画で出かけた家族旅行の話など、多岐にわたって話が大いに盛り上がった。

「そうそう、最近一つ隣の駅前でファーマーズマーケットがあったんですよ。」
「えっ、どんなものがありました?」

ファーマーズマーケット、と聞くだけで美雪のテンションは爆上がりした。とにかく、色々なものを見て回るだけで楽しいし、生産者と直接話が出来るのも興味深い。中には珍しいもの、初めてみるようなものもあって、機会があれば足を運ぶようにしているのだ。

「一番多いのは農産物ですね。朝畑から持ってきたという新鮮なお野菜とか果物とか。ああいうところに行くと、重たいのについつい買いすぎちゃうんですよね。」
「わかりますぅ〜」

女性同士、もうここまで話が盛り上がるとどこまでも進んで行けそうな気がしてくる。もはや美雪も母親も、あの子が結局どのフィギュアに決めたのか、それとも今もまだ決め切れないでいるのか、まったく把握していない。

「農産物の他にはお花とか、加工品で多いのはジャムかしら。あとはそうね・・・。」

ファーマーズマーケットの定番である農産物にも興味津々だが、珍しいもの好きな美雪としてはもっと情報を引き出したいところだ。

「あ、そうそう。外国のお線香? みたいなものを取り扱ったお店があったわ。あれは。インドとかなのかしらね、異国情緒あふれるお店で独特の香りがしたんですよね。」
「お香ですか! 私お香大好きなんですよね。」
「まぁ、来月もあるみたいだから、ぜひ行ってみては?」
「そうします。楽しみです。」

そうこうしているうちに、結局どちらかひとつを選ばされた子供が父親と一緒にこちらにやってきて、私は選ばれしフィギュアをその子から受け取って、包装してお会計をしたのだった。


もちろん、翌月のファーマーズマーケットが開催される日を調べ、その日には有給休暇を入れておいた。
その日朝からわくわくが止まらない美雪は、お野菜をたくさん買ってもいいように大きめのバッグを小さく折り畳んでショルダーバッグにしまい、少し早めに家をでた。会場に着くと、やはりわくわくが溢れ出す人々が既に到着しており、準備中のブースを遠目から物色しているようだった。美雪も負けじと、話に聞いたお香のブースを探す。推測するにおそらくエスニックな感じのものを扱っているお店だろうとあたりをつけ、そんな雰囲気のブースを探す。

開場すると同時に、入口から丁寧にブースを確認しながら進んだ。少し進んだところに魅力的な果物がたくさん置かれたブースがあったが、美雪にとってはまずお香のブースを探すのが最大の目的だ。後でこようと決めて、その場は通り過ぎた。もう暫く進むと、ふと鼻腔に香りが微かに漂ってくる。

近いぞ!!!

香りを辿って進むと、それらしき赤色と黄色と緑色に彩られた如何にもな布地をテーブルにかけているブースを発見した。もうあれしかない。足早に近寄ると香りも強くなる。

「いらっしゃい。」

ゆったりとしたエスニック柄の綿のワンピースに身を包んだ、如何にもな女性がニコニコしながら美雪に声をかけてくる。

「こんにちは、お香を見せてください。」
「もちろんです。どんな香りがお好きですか?」

テーブルの上には、5種類くらいのお線香タイプの香が入った箱が並べられていた。よく、アジアンエスニックなお店に行くと焚かれているような香りが、その箱から微かにあふれている。もちろん、お香マニアを自負する美雪は、そこの並べられている箱の香は全て持っていた。

「うーん、ここにあるので全部ですか?」

美雪の落胆を敏感に感じ取ったのか、ブースの女性は少し困ったように、

「うちが扱っているお香はいま、この5種類なんですよ。お探しのものはありませんでしたか?」

と申し訳なさそうに答えた。

「はい、これは全部持っているんです。・・・いい香りですよね。」

と美雪が答えると、ブースの女性は、あっ、と目を軽く見開いた。

「そうそう、こういうのもありますけれど、こちらはお持ちですか?」

そう言いながら女性が取り出したのは、透明の袋に入った白い葉っぱだった。その葉っぱは乾燥してカラカラになっており、少し丸まっている。

「いえ、これはなんですか?」

美雪が不思議そうにそう答えると、女性は少し嬉しそうに袋から葉を一枚取り出した。

「これは、ホワイトセージの葉を乾燥させたものなんですよ。ネイティブインディアンが、聖なる儀式の際に使ったと言われています。」

そう言いながら、女性は香を焚くためのステンレスの器の上で、その葉に火をつけた。
葉は暫く火を燃やしていたが、すぐに火は消えて煙がもくもくと立ち上った。

「この煙、風もないのにくるっと一回転したりして、すごく面白い動きをするんですよ。ちょっと見ていてください。」

そう言われて、葉からもくもく立ち上ってくる白い煙を眺めていると、確かに露天とは言え風のない場所にもかかわらず、うねうねと動き回ったかと思うとくるりと丸い円を描いたり、かと思えば空に向かってスーッと真っ直ぐ上っていったり、とにかく予測不可能な動きをしてくるのだ。

「うわぁ、これどうなっているんですか?」

お香の煙なんて、まっすぐ上に上っていくか、風が吹いたら揺れる程度なのに、この煙の動きは今まで見た事がないものだった。

「そうなんですよ。あり得ないほど動きますよね。ネイティブインディアンたちは、この煙を燻らせる事でものや空間を浄化していたと言われているんですよ。
ほら、風もないのにわざわざ右の方に煙が動いていくのを見て、きっと煙がいく方の何かを浄化しているのだと感じたんでしょうね。」

「面白い・・・これも、買う事ができるんですか?」
「もちろんです。買っていかれますか?」
「ぜひ!」

そうして、量り売りだというホワイトセージの葉を購入したのがつい二ヶ月前のことで、その日はこの後色々なブースを回って大量の農産物を買って帰ってしまったため、そちらの消費に忙しく、ホワイトセージのことは引き出しの見えない場所にしまってすっかり忘れ去っていたのだった。


「空間の浄化、かぁ。」

ブースの女性に聞いたことを薄らと思い出しながら、取り出した葉に火をつけた。
ホワイトセージは油分のある葉ということで、炎は勢いよく燃えてからゆっくりと落ち着いていくように消え、大きな煙が立ち上った。

その煙は、あの時見たように大きな丸い円を描いてみたり、うねうねと蛇のように蛇行したりしながら上っていく。先ほどまで雨が降っていたため窓を閉め切っており、無風の室内であっても縦横無尽に動き回る煙の形はとても面白いもので、ずっと眺めていても飽きる事がない。

一枚燃え尽きてしまったが、もう一枚取り出して火をつけてみる。やはりその葉も不思議な形で煙の軌跡を描いてゆく。

「香りもなんとなくいいなぁ。」

人の手が加わったお香の香りともまた違う、けれど割と強めの香りも美雪は気に入った。そして二枚目が燃え尽きた時、なんとなく室内に感じていたジメッとした感覚が、薄らいでいるような気分にさえなった。

「これ、なかなかいいかも。」

美雪はホワイトセージが入った袋を、今度は引き出しの手前の見やすい場所にしまい直した。今度は、気軽にちょくちょく燻らす事ができるように。

「今度のマーケットの日に、また買い足しに行こうかな。」

美雪は早速手帳を開き、ネットで調べた開催日の欄に大きく”マーケット”と書き記した。

「これでよし!」

窓の外の雨はすっかり上がって、風が木々を軽く揺らしている。
それは何気ない日常に、新たに加わった楽しみが美雪の心を軽く揺らしている様子にとてもよく似ていた。


終わり

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