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カウンセリングは精神的に病んだ人のものではない

心理学に漠然とした興味は昔からあったけど、自分がカウンセリングを受けるなんて一ミリも考えたことはなかった。

悩みや将来の不安、誰かに相談したいことはあるけれど、別にそんな大それたものじゃないんで自分で解決できます。

相談もしてもいいけど、結局決めるのは自分なんで自分で考えます。

そういう一人だったから、私も。

ふと仕事の関係で知った心理カウンセラーの人の記事を読んで気に入って、当時の仕事の福利厚生でカウンセリング料も少しカバーされるってだったので新規カウンセリングを申し込んだ。

私はいたって普通。友達もほどほどにいるし、恋愛経験も豊富ではないけどそれなりにある。仕事もうまくいってる。

その頃の私はルームメイトのいるシェアハウスで暮らしながら、家から電車とバスで30分の距離にある職場との往復生活。週末仕事なので友達にはなかなか会えず、仕事は楽しかったが休みの日はゆっくりして時々出かけるくらいだった。

ルームメイトにものすごい不快感を覚えていた。家の片づけ方やら考え方の違いやらでイライラして、いじわるなことを心の中で考えていた。このままでは意地悪ババァになってしまうのが怖い、と相談した。

カウンセラーさんは穏やかに、優しく聞いてくれて、私は時に泣いたり、心の奥底の認めたくない醜くて意地悪な感情を吐露した。

「私は何もすべて受け入れて大丈夫、あなたは何も悪くないっていってほしいわけじゃないんです、アドバイスがほしいんです。」と繰り返し伝えたが、カウンセラーさんは基本的に私の話を聞いて質問をしてくるだけ。そんなやりとりを2週間に1回ほどのペースで繰り返し、次第に私は「あれ、この前続きをやりましょうって言ってたのに結局今日もまた別の話して終わっちゃったな。。。いつになったらアドバイスくれるんだろう。。」と思い始めていた。

それでもところどころで自分の発言で気づくことが出てきた。そこをカウンセラーさんはすかさず拾ってくれる。

「あぁ私は怒ってたんだ。」

「いい子だと思ってた自分は、本音を言えない代わりに卑屈になっているだけだ。」

そして都度都度、彼女はこう聞く。

「いまの気持ちを表現するとなに?どんな感情?」

「それについて自分のことをどう思う?」

私はわからないことが多かった。その状況が嫌だ、その人が好きだということはわかっても、その自分の感情に名前を付けられない。

感情を聞かれずに育ってきた。

感情をぶつけて、それを受け止めてもらうという経験を子供の頃にしてこなかった。

常に人の評価ばかり気にしてきたから、自分の気持ち、自分の思いがわからない。

もっと早く気づきたかったと心の底から思う。

そして、これは精神的に病んだ人だけのためのメソッドじゃないのだ。誰でも、毎日楽しく何となく過ごしてるけど、何かつまらないな、寂しいな、うまくいかないな、という小さな見過ごしてしまいそうな悩みにもばっちりきくのだ。

日本にはカウンセリングがまだまだ浸透していないと思う。

カウンセラーとの相性もある。

そんなに自分が病んでると認めたくない、スピリチュアルとか宗教っぽいし、と思わずに、風邪を引いて病院に行くように、扉を叩いてほしい。

目まぐるしいほどの情報が流れてくる忙しい日本の毎日を過ごしていると、自分の感情を、自分のやりたいことを、悩みをついついないがしろにしながら生きてしまう。

ごく普通の私がこう思うのだから、きっとこの世界には同じように思っている人がもっといると思って伝えようとしている。

まだまだ自分について勉強中で、すべてわかったようなことは全くないけど、もっと早く自分のことをこういうふうに知りたかったと切に思う。

だから

扉を叩いていみてほしい。

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