推しで積み上げた背骨は私を支えない▶︎ 『推し、燃ゆ』読書感想エッセイ
『推し、燃ゆ』宇佐美りん
読書期間:2023.06.29~07.13
\ あらすじはコチラ /
TV番組「タイプライターズ」で加藤シゲアキくんが
「インパクトのある一文」
として紹介していたのが、この本の
--推しはあたしの背骨(要約)
という一行。
確かに!!
と思った私は、さっそく本屋で手にしたのですが、
何となく……何となく私、得意じゃなさげ……
な予感がして、とりあえず図書館で借りることにしました。
紙媒体はかなり予約が入っていて、こりゃ当分ムリだな、ということで、電子図書館でポチリ。
しかし、こちらも4ヶ月くらい待ちました。
ちょっと興味が薄れてしまった頃に(失礼)図書館から貸出OKのメールが。
別の本を読んでいましたが、やっと回ってきた順番だし同時進行でもいいか、とスマホで読みだしました。
シゲちゃんが言っていた「推しは背骨」の一文はわりと早い段階で出てきてしまったので、若干(また)興味が薄れてしまったのですが、短編だしサクッと読もうとページを繰っていきました。
が……全然サクッと読めませんね。
ヒリヒリする小説というのは、こういうのを言うのかもしれません。
主人公・あかりに肩入れはできないけれど、自分よりも大事な「推し」がいて、世の中をうまく渡り歩けない気持ちは、自分の芯の部分を掴まれて離してもらえない感じがありました。
私にも推しはいるけれど、自分より大事ではないし、あかりよりは世の中を渡り歩けていると思っていますが……なんででしょうね。
確かに、その人の役に立ちたいとか、誰よりも応援したいと思う人がいた頃、それは私の中枢だったと思います。
その人がいるから、大変な日々もこなせたし、誰かに嫌なことを言われても、その人が解ってくれるなら別にいいや、と。
推しは私の細胞で、私を形作るひとつだったんだな、と今改めて感じました。(背骨じゃなかったんか・笑)
しかし、支えてくれていた人がそんな人ではなかったとか、ハリボテの情だったのが解れば(あかりの場合は推しは人を殴るような人だったという事実)、背骨は脆くも崩れ去ります。
そんな時、私は視界がバーッと開けた感じがした(いわゆる「覚める」)後に、
今までの感情はなんだったんだろう??
という疑問が浮かびました。
消えてなくなるわけでもないし、燻り続けているけれど、もう自分を支えてはいないことをありありと感じるのです。
背骨でも細胞でもないのです。
主人公はこの感情に向き合わざるをえなくなって、人の形をした何かへと崩れて行きます。
そのまま雪崩て無くなってしまってもいい感情と、人間みを取り戻さなくてはと抗う感情。
自分が許容できるキャパよりも、自分から流れ出るものが多すぎて、感情が腐ってダダ漏れて、ゴミ屋敷のように孤立してしまう……。
こんな感情がずっと続く作品なので、最後まで読める自信がありませんでした。
今の世の中、こういう作品でないとメジャーな賞を取れないのだろうか、と正直がっかりもしました。
なんとか読み切ってしばらくして、ふと、あのシーンは主人公がもがきながら掴んだかすかな光なんじゃないかと思う部分がありました。
それは、あかりがラストに綿棒をケースごと投げ、そして拾い集めるシーン。
感情的には真っ黒なものがまだ渦巻いて、自分でも持て余していますが、それでもリアルな場所(自分の部屋)に撒き散らした綿棒を「片付けなくては」と思う感情も芽生えているのです。
そしてその綿棒が、彼女には砕けた背骨のように見えているのも、印象的でした。
人は人であってほしいのです。
人でない何かになるのは、たとえ創作でも不安がまといます。
だから、私にはあのシーンがあかりを人に戻した瞬間なのでは、と思いたいのです。
推しじゃなくて、自分自信が自分の背骨になると信じて。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
本日は、去年やっと三眼になったiPhoneからお送りしました。
また次の本でお逢いしましょう!
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