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かわさき市民アカデミー(24前期)自由民権運動講座第5回「自由民権運動における結社と政党 その2」政党編 福井淳先生 R6.6.26 

はじめに

 その1のレポートはこちらです。その1は結社についてでした。

 その2は政党についてです。本題に入る前に、今回も福井淳先生の私物をおしげもなく回覧してくださいました。
なかなか手に取ってみる機会のない、貴重なものばかりです。
本題に入る前に、浮世絵的なチラシや、宮内庁にお勤めだったときにゲットされた、天皇陛下、皇后陛下が使用した可能性のある、罫紙を見せてくださいました。

◆嚶鳴社の討論会が開かれた、柳橋万八楼(やなぎばしまんぱちろう)が描かれている(左上隅)。中心は美人画。当時、明治の写楽、と言われた豊原国周(とよはらくにちか)の筆によるチラシ。

◆天皇陛下の罫紙 メモ用紙的なもの。本当に使ったかどうかは不明。ものすごくしっかりとした和紙だった。貴春(たかはる)と書いてあります。(意味は何だったかな。。。倉山先生にきいてみよう)

◆皇潤皇后陛下の罫紙 歌会始などでメモ的に使われたのではないか?とのこと。長秋舎と書いてあります。

 少し緊張がほぐれたところで本題に入ります。

立憲改進党に焦点をあてて

自由民権運動研究において、立憲改進党(以後、改進党とも称す)がご専門の方は非常に少ないそうです。講師の福井淳先生は、そのご専門です。

立憲改進党設立以前

 自由党、板垣退助、のほうが確かにどちらかといえば有名ですよね。
 史上初の「政党」とは明治7年の板垣が結成した愛国党だと言われています。まだ国会も、選挙も無い時代の「党」。「党」という字には、徒党をくむ、残党、など過激で危険人物の集まり、というイメージがあります。自由党のシンボルだった板垣はカンシャク持ちだったとか。中島信行が党首と同じ権限をもち、実質は彼が党を支えていました。他幹部も皆、土佐の出身で固め、「剛改造」の組織でした。

中島信行 コトバンクより

立憲改進党設立

 明治14年の政変で愛国党➡自由党 となり、明治15年に立憲改進党が大隈重信を党首として結成されました。
 改進党も、大隈重信はシンボル的存在であり、党の実態は小野梓の働きと、嚶鳴社系都市知識人たちの派閥のバランスで成り立つ、という「柔構造」の組織、でした。

小野梓エピソード

 「見学の母」として東京専門学校(今の早稲田大学)創立関係者。義兄は小野義真(おのぎしん)。小岩井ブランド、の「小」の由来。ちなみに「岩」=岩崎弥太郎、「井」=井上勝
 

小野梓 ウィキペディアより

自由党と比べて改進党は

 自由党がフランスの思想を取り入れたのに対し、改進党はイギリス政治に倣った。自由党規約、には「選挙」の文字はないが、改進党は選挙権の拡大、外国との通商を重視した。
 また、イギリスの政治にならい、王室の尊栄を謳い、地方自治の基礎を作ることも重要視した。
 そして、なにより違う点は、マニフェスト(具体的な市政方針)を掲げる、という政党の先駆けになった、という点であった。
 そして、構造的な違いとして、
 自由党は、土佐の実力派で構成する剛構造
 改進党は、派閥による柔構造
でした。
 自由党は明治17年に解党するが、改進党は大隈・小野が脱党しても、その構造の柔軟さによって派閥の代表による「集団指導体制」をとり、明治23年第一回帝国議会まで継続します。

自由民権運動の欠陥

結社から政党へ

 自由党➡立憲政友会
 立憲改進党➡立憲民正党

この2大政党が昭和の戦前まで日本の憲政をリード。
  しかし、明治15年の「立憲帝政党」を加えて3大政党だ、という認識もありました。

政党とは何か、理念の不在がもたらした結果。。。

 自由民権運動として結社から政党へ、と変わっていく途上、政党とはなにか?という議論が浅く、とにかく団結し組織を作ればなんとかなる、まずは人数を集めることが大事だ、という目的が先走っていた。(ある党を思い出しました笑)また、「国会開設」が優先され、開設後、政党政治はどうあるべきか、の関心にまで及ばず
 嚶鳴(おうめい)社では政党について論議があったが、世の中では少数派でした。
(嚶鳴社は、現代でいえば救国シンクタンク的存在だった、と考えると分かり易いかと思います。)
 慶応義塾出身のジャーナリスト、東直之助(あずま・なおのすけ)が、政党は政治上の真理の討究をすべきである、と問題提起(「政党の弊害」『嚶鳴雑誌17号』明治13年7月)もありましたが。。。
 この結果、政府は明治15年集会条例改正において、政党も結社と同じ扱いとし、政府方針を覆すほどの言論の力及ばず、規制を受け入れざるを得なくなります。

おわりに 政党法の規定が無い日本

 福井先生は、明治の自由民権運動には「政党政治とはなにか」の理念を深める努力が無かったことを、欠陥として断じていらっしゃった。このとき思い出したのが、政治資金規正法でもめていたとき、倉山満先生が今の日本国憲法には「政党法」が無い、という話でした。現在日本では政党助成金を受け取る「政党」を定義しているだけです。政党とはなにか、が明確でなければ、政党政治、について語ることもできないと考えます。日本の政治状況は、明治から何も変わっていない、と強く思いました。
 福井先生は、今の日本政治の閉塞感を変えて行くヒントが、この明治の自由民権運動の歴史にあるのではないか、という哲学を持っていらっしゃる研究者です。今、私たちが繰り広げている減税運動についてどう思われるか、令和の自由民権運動はどうあったらよいのか、など伺ってみたいなぁと思いました。

減税あやさん R6.6.28記
 

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