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出張で会った友人との思い出:幸せになってはいけない気持ちについて

出張で神戸に行くことになり、神戸在住のお友達と会うことになった。この方は、EMSというスクールの関係で知り合って、Zoomでは何度もお話をしていたが、リアルで会うのは初めて。たまたま出張で半日時間があり、神戸に行くんですけれどもこの日会えますかと聞いてみたところ、快諾してくれた。
当日は、とても良い時間を過ごせた。年上の女性として仕事のスタンスは学びになり、私の仕事分野であるNPOの活動のあり方にも興味を持ったいただいたり、また今後の仕事のあり方への考え方、はたまた調理家電を使ったお料理のこと、EMSのことなどなどたくさんお話をして、色々アドバイスをいただいたり、とにかく充実してとにかくリラックスしてとにかく楽しい時間だった。
たまたま出張が続いている私は、その時間の後はもう一度新幹線に乗って移動をすることになっていた。なので、夜は少し早い時間にお別れをし、別れてひとりになった新幹線の中でありがたい時間だったなあとしみじみと感謝の念に浸っていた。
このとき不意に、「バチが当たりそう・・・」という言葉を、思わず呟いてしまった。
とっても幸せなこと、とっても良いことがあると、その代わりに、そのあとバチが当たってしまうのではないかと、かなり無意識のところで、思ってしまう。これはつまり、自分は幸せになってはいけないんじゃないか、良いことがあるとバランスを取る意味で、悪いことが自分の身に今後起こってしまうんじゃないか、そんなふうに働いている無意識の心の動き、認知バイアスであり思い込みだ。実際には、そんなことはあるはずがない。

公正世界仮説という考え方がある。これはそんな認知バイアスに拠る考え方なのだろう。

全ての正義は最終的には報われ、全ての罪は最終的には罰せられる、と考える。言い換えると、公正世界仮説を信じる者は、起こった出来事が、公正・不公正のバランスを復元しようとする大宇宙の力が働いた「結果」であると考え、またこれから起こることもそうであることを期待する傾向がある。この信念は一般的に大宇宙の正義、運命、摂理、因果、均衡、秩序、などが存在するという考えを暗に含む。

Wikipedia

私が思わず発した「バチが当たるなあ」と言う言葉は、「楽しかったなあ」という感情の一種の表現形だったのだが、言葉の意味合いとしては次は悪いことが起こる、ということになってしまう。違う意味付けとなり本当に悪いことが起こってしまったらたまったものではない。言葉は習慣につながる、大切に使わないと。

私が出張に行くと声を上げ、友達が会ってくれると言ってくれた。ただそれだけである。とてもいい時間が過ごせたことは、友達に非常に感謝もしているし、巡り合えたことも、ただひたすら感謝である。
バチが当たると思ってしまうと、脳内では、自然にバチが当たる行為を探しに行く。これが無意識の心の動きではないだろうか。だから、まあ反応で思ってしまったことは仕方がないので、あー思っちゃったなあ、と受け止め、でもそんなバチなんか当たらないけれどねひたすら感謝だね、そのように次の言葉でアウトプットすることで、また自分から発信をし、受けてくれる人と出会い、フラットな話をして、良い時間を過ごし、その会合に感謝していく、そんな連続を続けていきたいと思った次第でである。

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