92 これはパイプではない
エレベーターに乗ってすぐ、下の階で止まった。
乗り込んできた住民は犬を連れている。
ペット可のマンションとはいえ、この都会の手狭な部屋で犬を飼う人というのもそれほどいるわけではない。しかもチワワやトイプードルといった小型犬ではなく、柴犬だ。飼い主に抱きかかえられて、顔だけがこちらを向いている。興味ありげに鼻をひくひくさせながら、うるんだ瞳で見つめてくる。
実にかわいらしい。
「かわいい犬ですね」
と、つい声をかけると、飼い主の男性は振り向きもせず言った。
「犬ではありません」
――瞬間、凍りつく。その発言の意図について考えを巡らせ、そしてはかりかねた三秒の沈黙を経て、男性は続ける。
「フェイスタオルです」
「え、フェイスタオル……なんですか?」
思わず聞き返すと、男性は間髪入れず答える。
「ええ。フェイスタオルです」
「もしかして、その、抱えていらっしゃる、小麦色のそれの、名前ですか?」
と聞き返すと男性ははじめて振り向き、怪訝そうな顔で言った。
「これはフェイスタオルです。わたしはフェイスタオルに名前を付けません。あなたは付けますか?」
「いいえ」
と答えると、
「そうですか」
と返す。
「もしかして、それで顔を拭いたりするんですか?」
とさらに突っ込んで聞くと、男性は呆れたように目線を外し、言った。
「そんなことするわけないでしょう。顔じゅう毛だらけになりますよ」
ふっ、と男性が鼻で笑うと丁度扉が開き、彼は軽く会釈して去っていった。
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