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【書評】フランツ・カフカ「審判」

 テストで0点を取ったことがある。
 数学である。
 まったく勉強しなかったとか、白紙で出したとか、そういうことならまだわかる。しかしそれなりの勉強時間を割き、それなりの手ごたえを以て終えられたテストが0点で突き返された日には戸惑いを禁じえない。途中式の加点さえつかないのだから、果たして自分はこれまで何をやってきたのか。
 もしかしたら、数学を学んでいたと思いきや、それとは全く異なる規則体系について習熟していたのではないか*1。
 ――くやしいとか、かなしいとか、受験がどうとか、そういう月並みな感想を越えて、「狐につままれたような」と表現したくなるような印象を覚えたことを、今でも覚えている。皆が何の苦もなく従っている何らかの「自明なルール」に、自分だけが気づかず生きている感じ。
 今言葉にしてみると、そういう感じを受けた。
 そしてそういう感じというのは、生きるにあたってしばしば覚える。
 とある造園会社のバイト――の面接に落ちたからとりあえず一日やらせてみろと飛び入り参加したことがある。何の変哲もない住宅街の、然もない三階建てのアパートの、誰にも見向きもされないような植え込みを一日かけて刈り込んだ。鼻をかむと土埃で黒かった。明日も明後日も、これからどれほどか知れない長きにわたって彼らはこの作業を続けるのだろうと思うと眩暈がした(彼らはバイトではなく社員だった)。
「なぜこの職業に?」
 と聞いたところ、三十代後半の男は言った
「家が近かったから」
 自分と彼らとは、住む世界が違う。
 その時、他意なく純粋にそう思ったのだった。生きるにあたって、彼らは自分と全く異なる規則に準じている。そして自分は彼らの準じる規則とは無縁のところで生き、今後とも交わる見込みがない。
 ……そういう恐るべき確信を以て、掟の門は閉ざされた。

 世界は時として異様な側面を見せる。生まれてこのかたどうにかこうにかやってきて、あらゆる物事に慣れ親しんで、多くの物事が当たり前のものと化し、特段顧みられることもなくなり、次第に平滑になってゆく世界にあってなお、突如として壁がそびえ立ち、決定的な「否」を突き付けられることがある。印象としてこの壁は、通常歩むべき道の途上にないというだけで常に脇にある。むしろ、脇道に逸れることを頑なに拒んでいるのだが、それが正道だと思って進んだ道の先に知らずそびえていたりするのだ。
 この壁の存在を知る者にとって、カフカの諸作品は含み多いものと言える。なぜならカフカ自身の歩む道が壁壁壁のオンパレードだったのだから(というのはアフォリズムや手紙などからうかがえる)。壁の存在を知らない者は、カフカが何を畏れ、何を重く見、何と戦っていたのかもまた知りえない。
 しかし本当は、そんなことは知らずに済ませるのが(通常の意味において)健全な在り方なのだ。

 主人公ヨーゼフ・Kはある朝突然逮捕される。その罪状さえ明かされないままなし崩し的に審理を受け、身に覚えもないのだから当然無実を訴えるのだが、K以外のすべての人が何らかの仕方で裁判に絡んでいることが明らかになっていく。
 やがてKに示される最善手は、審理そのものを伸ばし伸ばしにして判決が下るのを延々先送りするという牛歩戦術だった。罪を認めないまでも、逮捕という事実を甘受し、規則に従うことで言わば「不自由な自由」を維持するという方法だ。一見してKの助けになってくれそうな人々も、実のところKを規則の内部に引き入れようと手ぐすねを引いているわけである。
 刑の執行を逃れるためには、審理を長引かせなければならない。そのためには、どれほどかもわからないほどの長きにわたって審理にかかずらわなければならない。それは規則そのものからの脱出という「真の自由」の断念を意味する。
 到底承服できないKは、あくまでも真の自由を求め、規則に真っ向から戦いを挑んだ。その結末は規則に対する敗北であると同時に、規則からの(本来的にありえない)超出と見ることもできる。この二面性には、カフカ自身の懊悩が現れているように思われる。

 ある朝起きたら逮捕された。
 ある朝起きたら虫だった。
 突如として不条理な状況に陥る書き出しは「変身」にも共通している。しかしわれわれだってある朝起きたら人である自らを、毎朝発見することになる。それ自体が不条理と言えない理由はどこにもない。
 帯の文句にはこうある。
「カフカの小説を読んではじめてわれわれは世界が不条理であることに気づく」
 カフカの小説は総じて奇妙だが、その核心は特殊なものではなく、むしろ普段何の疑いもなく営んでいるこの現実が実のところ何の根拠もなく唐突に、脈絡もなく、不断に与えられるものであることを示している。そこに描かれているのはまぎれもなくこの現実である。
 そしてわれわれは、この現実をどこまでも超え出ることができない。

*1
 のちにクリプキ「ウィトゲンシュタインのパラドックス」を読んで多少救われた気になった。「68+57」の答えを頑なに「5」と言い張る懐疑論者に対していかなる説明・説得が可能か、ひたすら執拗に、緻密に追及してゆく。

 ある規則に訴えることから、それとは別のより一層「基本的」な規則に訴えることに移ることによって、懐疑論者に答えるということは、魅力的である。しかし懐疑的な問題提起は、このより一層「基本的」なレベルの規則にもまた、同様に適用されうる。結局のところ、このより一層「基本的」なレベルの規則に訴えてゆくという過程は、何処かで止まらねばならない――『正当化は何処かで終わりになる』――そして私には、何らかの他の規則に還元されることの全くない規則が、残されるのである。しかし懐疑論者はそのような規則を解釈して、いとも易々と、いくらでも異なった結果を導くようにすることができるのである。このようなとき私は、如何にしてそのような規則の現在の私の適用を正当化しうるのであろうか。私はそのような規則を、盲目的に適用するのである。
(ウィトゲンシュタインのパラドックス:ソール・A・クリプキ:黒崎宏訳:産業図書:p31)

 規則を守るという規則が終局的にありえないのなら、規則とは人々の盲目的な適用によって常に暫定的に維持されていることになる。簡単な算術さえその種の社会的合意に過ぎないのなら、導き出されるべき正しさとは総じて「合意された正しさ」ということになる。
 何が正しいのかは人が決める。

 「もしそうなら、門番が言うことすべてを真実とみなさなくてはならない。そんなことがありえないことは、さきほどくわしく根拠づけておっしゃった」
「そうではない」
 と、教誨師は言った。
「すべてを真実とみなさなくてはならないのではなくて、すべてを必然とみなさなくてはならないだけだ」
「もの哀しい意見ですね」
 と、Kが言った。
「いつわりが世の秩序に成り上がった」
(p276)

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