【書評】古川真人「背高泡立草」
【背高泡立草:古川真人:2020:集英社:第162回芥川賞受賞作】
そうだな。セイタカアワダチソウにまつわる自分の記憶、何かあっただろうか。空港へ向かうモノレールの車窓から見える臨海都市の倉庫脇とか、飛行機の窓から見える滑走路の向こうの草地とか、そういうところに生えているようなイメージがある。もしかしたら実際に見たわけではなく、観念の産物かもしれない。ググってみたところ、特別潮風の強い環境に堪えるというわけでもなく、河川敷などにもよく生えているらしい。根から毒素を出して他の植物を忌避するのはアレロパシーと言ってこの植物の得意技であるが、その所為で自身の種子も芽吹きにくくなったりするとのこと。ちなみに、食べられるらしい。
一族で草を刈る話が縦軸として語られ、その合間に時代の異なる(草刈りの舞台である「古か家」とその周辺にまつわる)話が散りばめられている。
今は使われていない「古か家」の土地に繁茂した雑草を刈る作業――この年中行事に親類が集まり、帰ってゆくまでの一連の過程が本作のメインストーリーであり、特段の事件もなく、ただただ事の経緯が想念とともに詳述されていくというスタイル。一応の主人公らしい「奈美」を通して想念を含む状況の稠密な描写がひたすら続いていく。これといって奇抜な表現もなく、物語としても何が起こるわけでもないが、とにかく丁寧に描かれているという印象がある。
ただ、読んで面白いものかというと疑問もある。職人気質の板前によるゆきとどいた料理を堪能したという印象があるにはあるが、逆に言うとそれを超えるところがない。出来事の逐次的な経緯を主体の観念で味付けしたものを提供され、堪能する。そこにはしかしどことなく不満足が残る。なぜだろう。
自分にとっては、の話だが――読み手の想像を喚起するような何かが欠けているように思われる。
そこには、さもありそうな一家族の情景が、それこそ実際にそうした一家族として過ごす以上に精彩、明瞭に描かれているとさえ言えるかもしれないが、それ以上のところはない。
今は誰も使わない、ほとんど打ち捨てられたような空き家の雑草を年に一度、皆で集まって刈るという行いが、土地の歴史を絡めた重層的な語りのなかで示唆を帯びてくる。時の巡りとともに何度でも旺盛に茂る雑草とそれを刈り取る行為とが、過去を経て今後とも続くであろう土地の歴史の暗喩として働いてくる。この構造は周到かつ精巧に構築されていると言える。
しかし、そこから印象されるものに特段の真新しい気づきというものは、少なくとも自分にとっては無かった。主となるエピソードの合間に付置された、直接的な関わりのないエピソードが土地の歴史を補完する役割を担っているのだが、これら相互に一定の距離のある挿話は互いに共鳴し合うというわけでもなく、あくまでも草刈りの舞台であるところの島の歴史に収斂する。
さしたる起承転結もなくただ状況の逐次的描出が続くメインストーリーとは異なり、過去の挿話はそれだけ抜き出しても読めるような掌編となっており個々の面白さはある。ただ、どれもこれも「よくできた話」という印象を超えるものではない、と感じられた。
「生活」というもののそれなりにアクチュアルな印象があるにはある。しかしこの種の作品に触れるたび疑問に思われるのは、「ならば自分の生活を注視するだけでこの所感は得られるのではないか(あるいはそれはすでに知られた所感ではないか)」「生々しい生活の印象など敢えてフィクションとして読むに足るものだろうか」という点。
そういう意味で言うと、本書中では捕鯨の刃刺(鯨にとどめをさす役割の人)の挿話など面白かった。先輩の刃刺が半ば冗談で伝授した「人と喋らないこと」という極意を頑なに順守する青年の話。青年はとある商人の依頼により北の海での調査を命じられ、半年後戻ってくる。ついに禁を破り、村の男に自分の見聞きしたことを語ってきかせるのだが、その後の一節が以下となる。
自分自身、本書を読んだ全体的な感想として上記抜粋のような印象を持った。
観念としての「生活」にまみれてしまって、「生」そのものが感じられないのは、読みが甘い所為だろうか。しかしどうしても、さもありそうな人々の、さもありそうな日常の詳述以上のものをここに見出すことができなかった。
ちなみに一時は隆盛を誇っていたセイタカアワダチソウも先述のアレロパシーや、在来種ススキによる淘汰などで今は衰退傾向にあるらしい。様々な人が入れ代わり立ち代わり暮らし営む土地の歴史というものを、この外来の草に仮託していると読むと、考えられた題名、モチーフと言える。