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87 絶滅文化論Ⅲ「笑い」 序論

 失われたわれわれの風習の一つに「笑い」がある。この概念にまつわる具体的なイメージを想起することのできる者さえ、一部の研究者を除いては皆無となった現在、「笑い」は完全な形でわれわれの文化から姿を消したと言えるだろう。文献及び動画資料については、笑いが機能を失う以前のものを含めて割合豊富に見いだされる。よって少し調べてみればわかるだろうが、旧来笑いの持つ社会的意義というものは、無視できないほど大きかったように思われる。

 それではなぜ、現在のわれわれは笑いを失ったのか。そして過去、われわれはいかなる意義のもと笑いを用いていたのか。細部の議論は各章に譲るとして、ここではその全体像を大まかに素描したい。

 そこでまず、笑いとはいかなるものであるかを説明すべきだろう。その振る舞いとしては、「顔面の筋肉を引きつらせて断続的な嬌声をあげる行為およびその状態」となる。こうした振る舞いをよりよく励起する状況として、例えば「通常ありえない形にゆがませた人の顔を見る」「人が何らかの簡単な失敗を演じた現場に遭遇する」といったものが挙げられる。動画資料を含む複数の実例から推察されるところによると、笑いは、一般的な振る舞いや状況から外れた振る舞いや状況に際するにあたって、突発的に生じるか、あるいはそれに対する応答として振る舞われるべきもの、と言えるだろう。この脈絡を以て、笑いとは、笑いを催すべき対象に対してその是正を求め、正しい軌道への修正を促す機能を担っていた可能性が示唆される。同時にまた、当該対象を共に笑うことによって、何が正常であり何が異常であるかの共通認識を非言語的/暗示的に認め合う機能を担っていた可能性も示唆される。総合すると、笑いとは社会環境に対する広義の調整機能の役を担っていたとの推論が成り立ち、この考えは笑いの活きていた時代の文献にも記されるところである。

 例えば、今は失われた往事の慣用表現として「笑いぐさ」というものがある。これは笑われるべき当該の事態に対する皮肉、批判を意図して用いられる。また「笑いごと」という表現は、指示対象を笑うべき出来事として認識、表明することを意図しており、これは「笑いごとではない」のように否定形とセットで用いられるのがセオリーとされる。つまり笑いとは、当該の出来事に対する評価の一手であると言えるだろう。

 ここで問われるべき問題は、それが不可抗力的な表出なのか、それとも意図的な行為なのか、という点である。われわれがその概念のみをかろうじて理解し、認識の痕跡器官として特異的にそれを看取する者がごく少数存在すると言われている「悲しみ」や「喜び」や「怒り」といった、いわゆる感情というジャンルに腑分けされるべきなのか。あるいはこちらも今や失われた「握手」や「単純な言葉の往還」や「抱擁」といった社会的行為に腑分けされるべきなのか。

 ここで再び過去の「笑い」という語の用例を紐解いてみよう。例えば笑うのに値する対象を指す言葉に、「笑える」「可笑しい」というものがある。「笑える失敗」「可笑しい顔」といったように用いられるのであるが、「笑うべき失敗」「可笑しむべき顔」といったように、義務や推奨を示唆する用例が極端に少ない。往事の動画資料を見ればさらに明らかなように、複数人において同時多発的に笑いの発生する場面を見ると、そうした状況に際してお互いが「さあ笑いましょう」と示し合わせることなく、各々が、いとも自然にこれを励行しているように見受けられる。したがって笑いとは、思考過程を経ることなく、いわば反射的な振る舞いとして表出されるものでありながら、なおかつそうした振る舞いが物事を評価し、これを以て多数決的な仕方で場の価値観を決定づける役をも担う、不可抗力的かつ極めて政治的/社会的なコミュニケーション方法であったことが推察される。

 以上を鑑みれば、われわれの世に笑いが失われた理由も察せようものである。われわれはこのように極めて原始的かつ非知性的な手段に訴えるまでもなく、社会的恒常性を保つことができる。あるいは「笑い」のような非意志的/暗黙的な紐帯を必要とする形で運営される社会という形式そのものが捨て去られた、というのがより精確だろう。ゆえにわれわれは、笑いが活きていた旧来の社会とは意味的にも実質的にも異なる社会に生きているのである。

 ――以上が本論の大まかな論旨と言ってよいだろう。笑いとは未だ謎の多い研究分野であり、内容については当然批判的に見られるべきである。本論により笑いに対する議論が深まり、また研究への機運が高まれば幸甚である。とはいえそこまで構えて読む必要はなく、本論の最大のエッセンスは、笑いという観点からわれわれの生きる現代社会の実相をより客観的に、明確に認識するというところにある。本論を読むのにあたって、こうした認識をわたしが得たのと同様に読者諸賢も得られることを期待している。

 最後に蛇足として付け加えておくと、わたしは斯様に笑いについての研究を重ねてきたが、その知見を十全に得たところで、ついぞ実践できるようにはならなかった。先に挙げた例のごとく、知人に頼んで顔を「通常ありえない形にゆがませて」みせてもらった。次いで街中を観察し、何もないところでつまずく人の様子を観察してもみた。これらの実地調査において特段の感慨も得られないことでわたしは、笑いの死を、あるいは笑うべき対象の死を、身をもって実感した次第である。

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