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86 高等応用魔法講義序文 ―家事魔法の妙味―

 例えば「ガラス表面の手垢を除去する魔法」や「本のページをめくる魔法」といったものは魔法のなかでも低く見られることが多い。確かに「空を飛ぶ魔法」や「ものを発火させる魔法」といったものに比べれば汎用性にも有用性にも劣る。「そんなことは魔法がなくてもできる」と言われてしまえばそれまでで、それなしにはできないことをしてのけるという魔法の本分にもとるものだと批判されたところで反論しようとは思わない。
 
 しかしそうした一見瑣末に思われる魔法ほど、得てして複数の術式が複雑精緻に用いられているものである。
 
 実際、世に名高い大魔導士レナルテはその晩年「細粉懸濁液からダマを除去する魔法」を編んだが、これなどはまさに高等応用魔法の一例として相応しい。たこ焼き、お好み焼きといった粉物や各種菓子類を作る際に活躍が期待されるものであるが、その発動式の複雑さと、制御の難度を考えれば実用に供するにはあまりにハードルが高い。達人の余技と言ってもよいこの魔法には、実に九つもの基礎魔法が複合的に組み合わされている。
 
1、「物体の靭性を見分ける魔法」
2、「物体の座標を相対指定する魔法」
3、「流体の動きを予測する魔法」
4、「物体を追尾する魔法」
5、「所定座標に破壊的振動を与える魔法」
6、「液体の粘度を高める魔法」
7、「相対空間識別魔法」
8、「単純方向制御魔法」
9、「単純移動魔法」
 
 手順としてはこうである。
 
 1によって細粉懸濁液から粉のかたまり、つまりダマを見つける。
 2によってダマの座標を指定する。
 3、4によって懸濁液中のダマの動きを予測しつつ追尾し、
 5によって精確に中心から破壊する。
 このとき6によって破壊の衝撃による液体の飛散を抑える。
 次いで7によって指定された範囲(つまりボウルのなか)において、
 8による制御のもと、
 9が発動することによって懸濁液が再度撹拌される。
 
 ――少しでも魔法に携わったことのある者ならば、この複雑にして精妙な仕組みに驚嘆することだろう。1から5までの魔法は主に鉱石の採掘現場で今なお用いられるものであり、その複雑性だけでも瞠目すべきものである。
 
 しかし、真に驚くべきは7~8である。通常、単純移動魔法は直進しかできないところを、単純方向制御魔法の多段使用によって回転運動へと転じている。さらにそれを空間識別魔法によって、液体の溜まったボウルの内側という極めて限られた空間に作用させているわけである。また、回転翼などを用いることなく液体を液体自身により撹拌せしめるため、膨大な数のコロイド粒子を複数同時に指定し動作させているわけである。さらに付け加えると、コロイド粒子のブラウン運動による偏差を捉えるため、さらなる未知のミクロ物理学的魔術が使用されている可能性が示唆される。
 
 諸賢お察しの通り、「ダマを除去する」という目的を達するのにこれほど複雑な術式を用いる必要はなく、その他容易な方法がいくつか考えられる。例えば単純空間転移魔法によってダマそのものを消失させる方法などはよほど簡単であり、術者に求められる技量も低く済むだろう。そして既に述べたように、そもそもそれくらいのこと、泡だて器で少々頑張ればなんとかなる程度のものである。
 
 ところがこれを敢えて魔法で、しかも技術の粋を凝らして行うというところに遊び心がある。世間では「家事魔法」あるいは「瑣事魔法」と笑われ、蔑まれさえするこうした魔法も斯様に、その創造者に思いをはせ、その妙技に酔いしれるという興趣のわかる者にとっては並の魔法にも増して貴重なものと言えよう。

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