月下で恋を歌う 壱
コンコンと黒板を叩くチョークの音が、教師の声と混ざる。目だけで周りを見渡せば、真剣な眼差しで授業を受ける人、ガクンと船を漕ぐ人、机に突っ伏して寝息を立てる人。半分の人は寝ている気もするが、様々な人がいる。
そんな中俺は、外を眺めながらぼうっと考えていた。何故俺が生徒に扮しているのかを。遡ること1週間前、いつものように書類の整理をしていると上から呼び出された。
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俺は元々人ではない。月に住まう神の使い…というか雑用係だ。昔から人は様々なものに神が宿っていると信じてきた。月も例外ではない。月の神と呼ばれる方、月夜様が住まう此処は『月の都』という。
この月の都の中でも、中の上くらいの身分にある俺に一体何の用なのか。大体はどうでもいいことなんだけど。まったく、雑用係というのも楽じゃない。お叱りを受けないよう、足早に都の中心部、人の言う首都へと向かう。
月の都とは言うが、あまり人の住む所と変わらない。しいていうなら、月の都には車や電車というのが存在しない。人間界は便利で羨ましい。
都の中心部には大きな建物がある。少し異なるが、平等院鳳凰堂みたいなのを想像してもらえればいいだろう。そこに俺を呼んだ月夜様がおられるのだ。扉を軽くノックして中に入る。
「どのような御用でしょうか」
月夜様は一言で言うなら美しい方だ。いつもは男性の姿だが、彼に性別は存在しないとか。詳しくは知らないが。金色の入った白髪で、その髪は後ろで束ねてある。束ねた髪は彼の胸元までの長さ。彼は金色の透き通った瞳で俺を見下ろす。その瞳も月のように美しい。
「端的に言おう。君に新しい仕事をしてもらおうと思ってね」
男性にしては少し高い声が部屋に響き渡る。
「下界に下り、高校生として人の観察をしてきてほしいんだ」
「……はい?」
下界、つまりは人間界には既に何人か使いを送っているはずだ。学校に行っている者もいる。それなのに何故向かわせるのか、何故俺なのか。
「確かに、他にも使いは送っているさ。でも、もっと多くのデータが欲しいんだ。色んな立場から見た情報が」
心の中を読まれたようだ。人は地に住み、月は天にある。人についての情報が欲しいのは分かるが。
「何故、俺なんですか?」
ふっと口角を上げて彼は言った。
「君は人に関心を持っていないだろう? でも嫌っている訳でもない。君にはもっと人に興味を持ってほしいんだ」
いらないお節介だ、そう思ったが口に出せば俺の首が飛びかねない。物理的にも。それに、月夜様のお考えも分からなくもないし。折角名指しで下さった仕事だし。そう思っていると、彼が俺に言った。
「じゃあ、明日の夜に下界に下ってもらうね。期間は1年間だ」
「いち、ねん…?」
思わず口に出してしまった。嫌いではないとはいえ、1年は流石に堪える。
「そう。文句があるなら2年にしてあげてもいいけど?」
貼り付けた笑みを向けられる。
1度下ったら月夜様の許可が出ない限り上っては来られない。パワハラな気もするが、1年という条件を飲んで今此処にいるという訳だ。
無理矢理、高校生として暮らす為の知識を詰め込まれたり…酷い話だ。
そんな回想に浸っている間に、6校時の授業が終わった。高校生として暮らし始めて1週間と少し。俺が帰れるのは今年の十五夜、つまりは9月13日だ。1週間も時が流れたというのに、俺に友人と呼べる人はクラスに誰もいない。別に、そこまで深く関わるつもりは無いしな。
**
HRも終えた俺は徒歩で10分くらいの所にある古びたビルへと足を向ける。部活動に入部してないことは言うまでもない。たったっと階段を降りると、目の前に両手で大量のプリント類を運んでいる女子生徒がいた。
確か、クラスメイトの睦月 雪華だったか。足元もよく見えてないようで、今にも転びそうな足取りだ。荷物を靴箱のそばに置き、話しかける。
「おい、半分貸せ」
彼女は驚いたのか数秒固まってから口を開いた。
「あ、大丈夫だよ」
「はぁ、見せらんねぇんだよ」
ひょいとプリントを半分取ると、睦月は困ったように笑った。
「ありがとう、望月くん。職員室までいいかな」
言ってなかったが、此処での俺は望月 星という名前だ。普通、俺らに名前はないのだが、月夜様が特別につけて下さった。特にこだわりはないんだけど。
しかし、何故人間はこうやって無茶をしたがるんだろう。
俺にはよく分からない。
「望月くんは、何か部活に入ったりしないの?」
優しい声が聞こえる。彼女は軽音部に所属してるんだっけか。文化祭がどうとか言ってたしな。
「今のとこは。別にいいかなって」
興味無いと言いそうなのを飲み込んで答えた。彼女は興味あるような、無いような相槌を打つ。職員室に着くと、プリントを睦月に渡す。
ありがとう、と言った彼女のツインテールが跳ねる。職員室脇の黒板には『文化祭まであと10日』の文字が。適当に返事をして俺は靴箱へと向かった。
弍へ続く
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