見出し画像

「『プラットフォーム資本主義を解読する』を解読する」についていくつか④

 10/1(日)京都伏見「絵本のこたち」にて、スナック社会科meets絵本のこたち#02「『プラットフォーム資本主義を解読する』を解読する」を開催致します!会場チケットは完売しましたが、配信チケットは当日のお昼まで(コンビニ払いは前日まで)販売しています!

 当日まで、プラ解を読んで思い出した本や、繋がった本をぽつぽつ書いていくnote、4日目です。

プラットフォーム資本主義と差別について 

問題は人びとを序列化し、差別をするために創り出された「人種」という分類によって、いまも差別が繰り広げられていることだ。(略)
つまり、強制労働や利潤のために生み出されたカテゴリーこそ、「人種」なのだ。特定の人びとを収奪の対象として区分けし、差別を正当化し、資本を蓄積し、近代化を進めてきた、まさしく人種資本主義(レイシャル・キャピタリズム)を前提とする社会の延長線上でわたしたちが生きていることを、決して忘却してはなるまい。

Chapter06 人種化するプラットフォームと向き合う ケイン p91

 本書の中で、直接的に差別という視点からプラットフォーム資本主義を論じているケイン樹里安氏による、Chapter06「人種化するプラットフォームと向き合う 指先で抑圧に加担しないために」。この「指先で抑圧に加担しないために」という言葉がもう、ケイン氏の言葉だ(泣)となりますね。
 資本主義の本にケイン氏の名前があることも意外に思った方はいるかも知れません(しかも編著で)。しかし、本書を読めば意外性も唐突感もなく、「資本主義(認知資本主義)」という大きな括りの中で派生した「プラットフォーム資本主義」もSNSというプラットフォームも、上記引用にあるとおり、レイシャル・キャピタリズムの延長線上にあり、今も差別を再生産する場になっていること、それが資源化されている現実があることを突きつけ、氏が本書の中にいることは全く自然であり、また、全く自然にこの問題が近代化以降、形を変えながらもずっと存在していることに気付きます。そのことにいい加減、この社会を構成するひとりひとりが向き合わなければいけないと思います。まさに「指先で抑圧に加担しないために」。

 本文全文引用したいくらいですが、そこは本書をお読みいただくとして、前回のスナック社会科meets絵本のこたちでケイン樹里安氏の追悼ZINE「『ケイン樹里安にふれる』共に踏み出す半歩」を取り上げ、文章を寄せた中から制作・編集のバーヌ氏を始め、「ふれる社会学」の共編著者でもある上原健太郎氏等複数人で、ZINEの内容から、ケイン氏の今までのお仕事にもふれて話は広がったのですが、「ふれる社会学」(2019)の第一章『スマホにふれる』(ケイン樹里安)に始まり、「対抗言論2号」(2020)の同じく同氏の『帝国のタイムライン「ひろしまタイムライン」とポストコロニアル・メランコリア』、そして本書の『人種化するプラットフォームと向き合う』まで、同じ問題意識が貫かれていることと、それが研ぎ澄まされていること、そして厳しい文章になっていくことが感じられました。

 『帝国のタイムライン「ひろしまタイムライン」とポストコロニアル・メランコリア』とは、2020年に「ひろしまタイムライン」というNHK広島支局のプロジェクトの一環で「もし、75年前にSNSがあったら?」という設定で、一郎(32歳の既婚男性)、やすこ(26歳主婦)、シュン(13歳の中学生男子)という3つのアカウントが同年8月にTwitter上に現れ、その中で戦時中から終戦を迎え、それ以降の日々が各自の日記をベースに劇作家が監修し、学生たちが創作した文章を投稿するというプロジェクトの中で、8月20日にシュンのアカウントから差別扇動的な投稿がなされたことに端を発し、その投稿自体、NHK始め制作に携わったものの反応や対応、そしてそのアカウントをフォローし、追いかけていたフォロワー(ギャラリー)たちの反応とその後の変化などを分析し、論考を繰り広げたものです。
 これも詳しくはこの対抗言論2号をお読みいただきたくとして(他にも重要な論考と執筆者ばかりで永久保存版です)、いつになく厳しい文体だな、と初読時思ったのですが、私はひろしまタイムラインをフォローしていなかったので、その盛り上がりも、その後の炎上も「またメディアがやらかしたか」くらいのイメージであったのが、この論考を読み進めるうち、これはメディア側(制作側)だけを批判して終われない問題であることに気付きました。いつになく厳しい文体は、この問題が筆者を含むこの私(たち)にも関わるものだったからなのだろうな、と。

各アカウントの「中の人」にとっても、オーディエンスにとっても、画面越しではあるが、その指に文脈は異なれども自由が制限された非常時の「当時」と「今」が交錯する、身体接触を伴う経験として、「ひろしまタイムライン」は立ち現れていたのである。

『帝国のタイムライン「ひろしまタイムライン」とポストコロニアル・メランコリア』 ケイン
対抗言論2号 p93

 この中で問題点は複数点あり、それぞれ影響しあっているのですが、
1.シュンの差別扇動的なツイートを当時の時代背景などの注釈もなしにそのまま投稿したこと
2.その投稿も当時の日記からとしながら創作物であったこと
3.その後のシュンへの反応の二極化(激励のメッセージ・裏切られた)
4.身体接触を伴う体験をすることで私(たち)が仮託してしまうこと
5.過去の植民地主義に向き合えていない状態で、かつての(うしなわれた)帝国で刻まれた時間を現在の時間軸に同期させてしまったこと

 1と2は、Chapter04「検索プラットフォームの生態系」に引かれているDeNA社のWELQ問題に繋がる部分もあると思ったのですが、視聴数が稼げれば何でも良いのか(現在更にそうなっていますよね)という問題でもあり、それはそのまま3の問題に繋がり、それを問題視するかしないか、という分断をうんでしまうこと※1、その3の問題も4の問題のように私(たち)が仮託してしまうことで起きてしまうことであり、それは全て5に行き着き、本論考でケイン氏が題した「ポストコロニアル・メランコリア」の問題であると思います。

すでに抑圧のある社会で生み出されたプラットフォームにおいて生成する、創造性(クリエイティヴィティ)と快楽は、ユーザーの裁量を越えてしまうほどの厚みをもった社会の仕組みによって構成された抑圧と共にある。(略)プラットフォームを介して、歴史的な抑圧を参照した創造的実践を繰り出す限り、投稿者も視聴者もマイノリティの抑圧に加担してしまうのだ。

Chapter06 人種化するプラットフォームと向き合う ケイン p86

 ここでプラ解のケイン氏の章に戻ると、「人種化するプラットフォーム」はプラットフォーム資本主義が人種資本主義(レイシャル・キャピタリズム)の延長線上であり、引用した論考を繋げると「ポストコロニアル・メランコリア」の空気が覆う本邦では更にそれが差別を肯定することにもなってしまう。
 そこには大人(たち)が本気で抗っていかなければいけないと思います。
そのためにどう抗っていくかも、この章後半に書かれていますが読んで納得するだけでなく、抗う身体として自身に取り込めるように身体化を意識していけたらと思いました。

 また、下記引用の本と記事を読むと更に、「人種化するプラットフォーム」の問題と、差別が温存されたままテックが発展すること、プラットフォーム資本主義が、プラットフォーム企業の帝国化を促してしまうこと(プラ解ではそれが新しい封建社会にいたると書かれている)が、我々の生活や人生にどう影響してくるのか更に理解が深まると思います。
 「AIと白人資本主義」は高くて長いので(私も図書館で読んだ)、まずは下地ローレンス吉孝氏の解説と、「先鋭化する大富豪の白人男性たち、警告する女性たち」の記事を読んでいただくのもありかと思います。

 また、下地ローレンス吉孝氏は「HAFU TALK」を立ち上げた仲間であり、親友でありというケイン氏と深い縁のある方ですが、下地氏の名前を「AIと白人資本主義」の解説で見たときも、意外感を感じたのでした。ケイン氏と本書で感じたものと同じように、読めば意外性もなくむしろ適役であり、下地氏がその後、レイシャル・プロファイリングの問題に関わっていることも地続きであると思いました。

 ケイン氏がいたらお二人のタッグや、セシリア氏も含めたHAFU TALKでまた違う展開が見れたかもと思ってしまいますが、そこは至らなくても力不足でもバトンを渡された我々各自が各所で出来ることをして繋げていかなければと思います。
 その為にも本書をお読みいただき、ケイン氏の章の檄文のような文末にまずは打たれて頂きたいと思います。


いただいたサポートはスナック社会科運営資金として大切に使わせていただきます🍺 いつか乾杯しましょう!