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湿度とトーンポリシング(2)

家族の中でアンタッチャブルで言語化できないままにされていることは、そのまま国家レベルでも相似形で起こっている、というのは、家族と国家は共謀する、の信田さよ子先生の説だ。

イエは国家のミニチュア、というパワーワードよ。。。

心理学というものも、基本的には胡散臭い。
もともとシャーマニズム的に、広く深い世界であったもののうち、社会において為政者に都合が良い人民コントロール術の部分だけが、恣意的に借用され、換骨堕胎され、アカデミックに権威付けされたものが精神医療だ。
だから必然的に、精神医療が目指す心の健康は、「一刻も早くなおって社会の歯車の役目を果たせ」というもの以上になりようがない。

わたしは、このことに気づき言語化できるようになるまでかなり長い時間がかかり、その間、何か変だよなぁ、、とずっとくすぶっていた。

Photo by Faith Enck on Unsplash

このもやもやに光をあてる、ぴったりのキーワードがある。
それは、レジリエンスとレジスタンスだ。

数年前から、レジリエンスという言葉がやたら広められた。広まり方にわたしはとても違和感を感じた。「困難をしなやかに乗り越え回復する力」という意味ですよ、と言う。しかし、なぜか気持ち悪いキーワードだ。
「トモダチ」「絆」「思いやり」と同じにおいがする。
そう、もともとは、ゴム製品などの「弾力」を意味するキーワードなのである。
ゴム。ゴムとは、ゴ〇ムのことだ。ゴムの化学的性質を知ればわかるはずだ。なぜゴ〇ムがそこまで、ぼろくそに非難されなきゃいけないのか。
 
熱力学の法則は、ゴムの性質を丁寧に観察していれば理解できる。しかも、この構造は、情報工学で現在ばんばん活用されている理論そのものだ。ゴムは不思議な化学的な特性を持っていて、固体なのに、内部ではまるで液体のように分子が自由に移動し合う構造になっている。そして、引っ張られたら縮む性質はまさに、集団でくっついている方がここちよいという特性そのものなのだ。エントロピーという、熱力学的な特性からも特殊な性質をもっていて、縮んでいる時の方がエントロピーが高い。

本来、エントロピーは不規則さ、無秩序さというものと比例して活性する。自由に動けるからこそイキイキするのは当然で、止まっている状態は活性ではないのだ。それは多くの物理的な特性でいうならば固体より、液体、液体より気体の方がエントロピーが高いのが自然ということになってくる。
ところが、ゴムだけは、固体だからこそ自由度が高いという意味不明な性質なのだ。縛られている、囲われている方が自由という何とも意味不明なロジックである。
シオニズムにおけるゴ〇ムは、家畜であり、人間以下のように描写されるが、単なる選民思想ではなく、ゴム的な資質が、何を物語るのか。これを見据えればいろいろと謎が解けるのではないだろうか?

ゴム的な挙動がレジリエンスだとすると、これとかなり近いようで、まったく違う定義が「レジスタンス」であるということがわかってくる。

信田先生は、レジスタンスこそが、この家族と国家の相似形、の世界に対して、個人が静かに立ち向かうための大事なキーワードだとおっしゃる。

ところで、お店で買い物をして、お金を支払う時に計算をしてくれて、おつりを出してくれる機械のことをレジスターというが、語源を辿ればレジスタンスと同じである。計算機であるレジと、「抵抗」を意味するレジスタンスが、結びつかない人は多いのではないか。

resistanceは、re+gero に分解される。再び+geroするということなのだけど、geroとは、bearと同義であり、「うみだす、(重いものを)持ちこたえる、(実を)結ぶ」といった意味だ。
つまり、レジスタンスとは「再び生み出す」と言う意味になる。

(蟹山羊ライン。蟹座はbear=おおぐま座こぐま座の近くにある。蟹座がbearという象徴でできているのは、動物の熊というより、動詞としてのbearなのだよなと思う。家族と国家は相似形、のおはなしは、まさに蟹山羊ラインの話)。

つまり、レジというのは、本来物々交換、等価交換であるお金となにか、の交換の場面に割って入った機械である。割って入って何をしているのかと言うと、お金の流れに介入し、その電圧を操作して、分配する係ということなのだ。間にレジ的なものが入ることで、わたしたちは税金や手数料的なものを取られる。個人がもつ本来のエネルギーに抵抗することで、再び生み出された利益が、どこかへ分配されていくわけだ。

送電線の仕組みを考えてもわかる、もともとは、とても高い電圧の状態でやってきているものを、各家庭へ引き込むとき、レジスタンスを間にかませることによって、電圧を低く弱め、分配しているわけだ。

この分配をする権限こそが、支配なんだよね。支えて、配る。まさに字の通り。bearの世界ということ、、

もうおわかりだろう。お店にあるレジは、支配の象徴というわけだ。ただ計算をしているわけじゃない。計算の設定をしている存在が背後にいるわけだ。

これを、逆回転させる発想が、信田先生の使ってらっしゃるニュアンスでの、レジスタンスだ。

家族の中で起こったことは、なかったことにされるが、それは、戦争によって心を病んでしまった人々は存在しない、とすることと相似形である。
名前を奪えば、その体験はないことにされてしまうわけだ。

信田先生は、自己肯定感という言葉は使わないとおっしゃる。
わたしも、自己肯定感という言葉を巧みに用いる術が嫌いだ。
その理由はまさに、わたしが上記で引用したゴムの物理学に、人の感情を引き入れて弄び、そのバウンド力は結果的に、支配者がほくそ笑むことに利用されて終わるだけだからだ。力による暴力を悪と設定し、被害を受けた側を過剰に美化することは、裏目に出るだけだ。

だから、力によって傷つけられた人がしなければらないことは、自己肯定感を高めることではない。断じて、ない。

ただ、起こった事実を、適切な言葉で定義し、その感情をきちんと尊重すること。
これこそが、レジスタンスだ。

「え?それだけ?」と思うかもしれない。

だが、これこそが、実は支配者が怖れている鍵かもしれない。

自分が感じていることを、きちんと尊重すること。
これこそが、自立のスタートであり、大事な大事な原初なんだ。

大きな力による暴力の物語に、わたしたちが巻き込まれ傷ついた時。
傷ついただけでは、その力に屈したとはいいきれない。
「わたしはその物語に同意しない」という意志。レジスタンス。抵抗。
これさえあれば、わたしたちは、力を取り戻せる。

大きな権力にコバンザメになってくっついているひとたちは強そうに見える。数では負ける。とても太刀打ちできないと思うかもしれない。

だけど、わたしたちが、おおきな力にわたしの力を明け渡さない、という意識さえもてれば、世の中は、少しずつ、変わる。

そのちいさく、おおきな一歩が、自分が感じたことの尊重なんだ。この根底があるかないかが、わたしたちが生きるのか、心を殺して外的な光を反射することに徹して生きる(=月に取り憑かれて生きる)の分水嶺。


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