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キクイモが教えてくれた「平安」

平安といえば、
京都に住んでいたわたしは「平安京」がまっさきに思い浮かぶ。
素直に考えて「無事で穏やか」という意味だが、いったい、どんな様子が「無事で穏やか」なのだろうか。

このことをシンプルに問うてみることは、実はキネシスとエネルゲイアについての基本的なヒントになるので、まずはこの話からしていこう。

私が岐阜に引っ越して、地域の直売所で、普段食べなれないマイナーな山のお野菜にいろいろ出会ってかなり驚いたのだけれど、そのひとつがキクイモだった。関西に住んでいるときはほとんど見かけなかった。

その名の通り、キク科のイモなのだが、学名がおもしろい。
エルサレム・アーティチョーク(Jerusalem artichoke)だ。
名前が「平安」ではないか。


なんでこのイモが?

植物の学名は、単に発見した人の名前がそのままつけられていることもあるけれど、往々にして「名は体をあらわす」と言われる通り、その語源を追うことで、植物の性質気質を深く理解することにつながってとてもおもしろい。
(このキネシスからエネルゲイアへ、を手探りで書き始めた頃、私はまだ語源オタクへの道のまだ入り口にたったばかりだったっけ、と追記している2022年の今、ふと思うのですが….)

Photo by Shane Hoving on Unsplash
https://unsplash.com/photos/uN0L5DlSPhI

ウィキペディアには、このキクイモとエルサレムというパレスチナの都との関連は不明であると書いてある。

キネシスとエネルゲイアの考察をすすめることは、物事の源に遡ることでもある。その際にどうしても避けて通れないのが、宗教的な題材だ。そして、丁寧に、あらゆる偏見や思い込みを排除して取り扱っていくと、巷で定義されている内容とどんどん離れていく現場に、立ち会うことにもなってくる。

内容を再編集している2022年現在、カルト宗教について物議を醸している空気に満ちているのだけれど、わたしはどんな宗教も、最後の最後は同じ境地に行き着くととらえるのが好きだ。
仏教の悟りの境地も、キリスト教やイスラム教の神も、同じ領域を指し示しているのではないか、という。

そしてそれは、必ず自然が物語るストーリー、自然がもっている秩序に相似形だと思っている。

宗教、と書いたとたんにもう拒絶反応を示す人が多いのはわかっている。
だが、スピリチュアルは宗教じゃないから安心だよね、というロジックがまかり通ってしまうことにわたしは疑問を抱いている。
あるいは、科学は客観的だから安全だというのもどうかしていると思う。
証明が不可能だったり、再現性がない世界がある、ということを軽視しすぎているのだ。

結局これらの根っこを追わないでいると、わたしたちはよくわからないが、効果があるとされている方法論だけを選び、深く考えずそれらに翻弄されるだけで人生が終わる。

その状態が洗脳や妄信じゃなくなんだというのだろう?

巷で有用とされている、あらゆる方法論の源泉は、どうしたってどこかの宗教や、ネイティブな文化と切っても切れない。

そしてスピリチュアルはとくに、宗教でないということから余計に、経済に資する方法にエネルゲイア領域を奉仕させる、ということにどうしたって傾きやすい、ということに気づいたことから、わたしは古い方古い方へ遡り始めたのだった。

そしてなにより、経済システムがこういう風に成り立ってきた過程に、宗教というものは切っても切り離せない。特に旧約聖書的な世界観と、経済世界のお約束は基本的に大きく重なる。だから「なんか洗脳されそうだから触れないでおこう」というわけにいかないのだ。

宗教の経典は、自分のところがよそより素晴らしい、信者によそにいってしまわないでほしいという色気があるから、そういった歪みが何割か入っている。

だが、そういった要素を丁寧に取り除き、冷静に哲学の本だと思って読んだとき、深くおもしろい世界が広がっているとわたしは感じている。

だから、キクイモのこの名前とエルサレムが「たまたま偶然でなんの意味もない一致」で考察を終わりにするわけにはいかない。

で、買ってきたキクイモ、包丁を入れてみた瞬間手が止まった。

「シャキッ」という感触、、これどう考えても普通の芋と感触が違う。
なんだなんだ、芋じゃないじゃないか、と思って調べると、なんとキクイモの主成分は多糖類イヌリンを含む食物繊維で、デンプンはほとんど含まれないとのこと。


がーん。
カルチャーショックだ。
教わったとおり千切りにして、あく抜きして炒めて食べると、確かにシャキシャキしてごはんがすすむ美味しいおかずになった。

冬から春にかけて、端境期は旬のお野菜の種類が格段に減る時期に手に入る貴重なお野菜でもある菜のひとつがキクイモ。
岐阜の暮らしは、冬の寒さがほんとうに厳しい。都会の暮らしのように、冬の時期にむやみやたらと外に出かけるというわけにはいかない。
現代は車で移動し、生活スケジュールも都会と同様になっているけれど農的生活がベースだった頃は、冬の時期は動き回ることもせず、たくさん食べることもせず、春に変わっていく頃、こうやって、腸がきれいになるお野菜をいただいてデトックスするのにぴったりなのだな、としみじみ感じた。

そして、腸は第六感をつかさどる大事な場所であり、ここが綺麗になるということは、エネルゲイア領域=心の平安 がまさに訪れる、そういう意味でキクイモに、エルサレム(平安)という名前がつけられているのではないか、とわたしは推測した。

「平安」。

born1945 from Hillsboro, Oregon, USA, CC BY 2.0 
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Gion_Matsuri_of_Kyoto_Japan_1920s.jpg

京都もまさに「平安」を願うための大々的なお祭りや儀式がたくさん執り行われているわけだが、そこで祈られている商売繁盛、家内安全、豊作、といった意味でのキネシス領域が安泰になった感覚は、
キクイモを食べて身体がデトックスされて気持ちがよくなった感覚と質が違う。
前者の「平安」を求めるなら、同じ芋でもさつまいもやじゃがいもといった、エネルギー源になりやすい芋が「平安」と命名されるはずだろう、
でもそうじゃないということ。

このあたりに敏感でいることは、些細だけれどとても大切なことだと感じている。

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