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アンスクーリング・ホームスクーリング関係

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息子をアンスクーリングで育ててきています。子育ては自分育ての過程でもありました。私は外勤をしている時期も結構あるので、あまり親子で何かした、みたいな話は少ないです。どちらかという…
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#アンスクーリング

Living,Loving,Learning #010

ジェイコブ・リバーマンは、自らを実験台にしながら、目が悪くなるとはそもそもどういうことなのか、そして、視力が回復するとはどういうことなのか、これらを丁寧に検証していくうちに、ひかりと霊の世界の仕組みに気づいた人だ。 たいていの光学理論は、ニュートンの考え方がベースになっているが、あるレベルを超えると壁につきあたる。そこに挑んだのがゲーテやシュタイナーの色彩光学理論だ。ゲーテによると色はとても個人的なものであり、みんな同じ色が見えているわけではない、といった話になってくるため

Living,Loving,Learning #011

自然が自らの秘密を、だれかに打ち明けはじめる。その人は、自然を最も適切に注釈する芸術への抗しがたい憧れを感じる。 ー散文の箴言 ゲーテ ー これはわたしだけの感覚なのかどうかよくわからないけど、あんまりととのっていない、味があるなにか、というのがとても好きだ。作り込みや完成度というものが異様に高いものには、白けてしまう。 といいつつ、たどたどしい方が素敵、みたいな小賢しさがちらつくものも、あんまり好きではない(勝手なものです..) テクノロジーが急速に発展したことで、完成

Living,Loving,Learning #012

やがて大人たちの笑い声も、ぼくたちのと混ざり合った。オリビアおばとロジャーおじ、ジャネットおばとアレックおじが果樹園を抜けて現れ、一日の労働が終わった後たまにするように、ぼくたちの仲間に加わったのである。 光と影の交錯する魔が刻が、苦労と心配を中断させてくれた。そんな時ぼくたちは、大人がいつもより好きになるのだった。彼らが半分子どもに立ち返っていたからだ。 ロジャーおじとアレックおじは、少年のように草の中でのんびりと休んでいた。うす紫のきわだって美しいプリントのドレスをきて、

Living, Loving, Learning #001

2017年頃、地方移住して岐阜にいた頃に書いた、小さな冊子がでてきたので、多少加筆してアンスクーリングがらみのメモとして載せておきます。 主に、アンスクーリング的な気持ちにぴったりくる本の引用と、そこからインスパイアされた走り書きです。 日常において、なかったことにしている、ささいな感覚。 そこにもう一度意識を向け、その存在をみとめてみるだけで、 どれほど、いきててよかったという気持ちがもどってくるだろう? 昨夜も私は長いことヴェランダに出て、荒い畔と、それに交る雨粒と

Living, Loving, Learning #002

メタファー的な理解とは、似ていないように見える対象のあいだの類似性を感知する能力である。アリストテレスの言葉にもあるように、「メタファーによって、新奇なものが理解しやすくなる」 ー共感覚者の驚くべき日常 リチャード・m・シトーウィック 山下篤子 訳 よりー メタファー(たとえ話・比喩)的な理解がうまい人は、おそらく何を見ても感じても、言葉の背後にあるエネルギー状態で、直観的に世界をとらえる力が強いのではないかな、と思う。 ひとつのことをたくさんのメタファで多角的に言い表し

Living, Loving, Learning #003

霊性がリーダーシップをとって、テクノロジーがそれに従うのが理想的です。しかし、今はその逆になっている状態です。だから人類はダメな方向に向かっていって、環境は破壊されているのです。 ー原子転換というヒント 久司道夫 よりー 手を動かしながら話をしていると、ほんとうにその時に無理なく、普段なら理解できないようなむずかしい話がするりとわかる、ということが結構起こる。 今日はたまたま、鍼灸の神様的な存在、沢田健先生のお弟子さんが、いろいろなエピソードを書き連ねている鍼灸真髄、をち

学ぶってなんだ。

さて、前回の続きを、たどたどしくも書いていきたいと思います。 そもそも、あなたにとって「学び」ってなんですか。 したくないけど、しなきゃいけないからするもの? 社会に出るために必要な義務? それとも、新しく知ること、わかること、身につけることがわくわくするから? わたしたちは、大人になる過程で、いろいろな物事の序列や、価値付け、常識や慣習、ありとあらゆる条件付けによって、物事をありのままにとらえることからかけはなれた暮らしを強いられ、それを疑いもせず受け入れて暮らし

本物の微笑みに触れる。

人間が病んでいくということの原因はただひとつ、 心身の連携がぶっこわれ、自分が大事にしていない、うっとりしない何かに対して、 人生の大事な時間や、自分の能力を捧げ続けてしまうということだとわたしは思っている。 このことは、ホリスティックな視点から心身をとらえれば、あたりまえな真実。 アンスクーリングにおける学びの核は、心身の連携に常に耳を澄ませ続けるところにあります。 そういう意味で、学校に行くことができなくなってしまった人(不登校)、社会との接点を失ってしまった人

2019年、現在地メモ。

最後にここに書いてから、もう3年もたっている。 長いような短いような、そしてそのあいだに めまぐるしく環境がかわり、それはまだ続いている。 アンスクーリング・ホームスクーリングというと、 時間的制約から主婦層が中心になっていると思う。 だがわたしはそういった、 外側の物理的容易さによってやりやすいかどうか、 ということだけでアンスクーラーかどうかは決まらない、 本質的な意味でのアンスクーラーらしさ、 を見据えていたいと思い、 この3年間過ごしてきた。 今

スクーラー=外的規範に沿う人々

アンスクーリングという概念は、 禅問答のようなもので、 それそのものを、 言葉で指し示すことはできない。 だから、 スクーラー=外的規範に沿う人々 というものを打ち消した言葉でまわりくどく表現することになる。 だから、 アンスクーリングの本質は 学校が、それそのものの延長である企業が、 どのようにわたしたちにとって恩恵をもたらすとともに、 何をスポイルさせ、わたしたちをダメにしているのか について丁寧に向き合う過程そのものである。 そういうことだから、 その中にいるこ

アンスクーリングと、愛

一般的な教育で学んでいるのは、規範である。 じゃ、アンスクーリングで学んでいるのは何? という答えを、 一言であらわすならやっぱり 「愛」 ということになるとわたしは思う。 スクーリングの世界に生きている人が 脳裏に描いている 「愛」と、 本来の意味での「愛」は、 いろいろと異なる。 ほとんど真逆であることも多いだろう。 アンスクーリングについて書くことは、 ほとんど全部この、 「愛」についてのストーリーだと思う。 ・・・勘の良い人はもうおわかり

アンスクーリングと、愛(2)

巷における愛の概念は、 規範という蟹の甲羅にすっぽりと守られた中で生きている人が、 その中で「快い感情」を手にすることができる瞬間、 を指しているようにわたしは感じている。 群れは「みんなでひとつの大きな身体」だ。 群れの規範に沿って生きていると、 そこには個々のストーリーがなく、 ひとつの、誰のものでもないストーリーが、 死んだ状態で流れている。 ただ、その中にあるのは山と谷、起伏であって、 人は当然、この「山」=「吉」の要素が欲しい、と 「山」の要素

開かれた知性に憧れて

ブログ本体を閉鎖してしまい、その後どうするか模索しております。 新しいサイトのドメインも取って、wordpressで大枠はつくってあるのですが、どういう切り口でかけばいいのか途方に暮れています。 なのですが、今日は、アンスクーラーらしい話題をひとつ備忘録としておきたいと思ったのでnote書いてみました。 昨今、いろんな情報がネットで飛び交う中、それをどう読み解くかに、各自の育ち方、学び方が如実にあらわれているなあ、としみじみしています。 知識が豊富で、素敵だなあと思っ

開かれた知性に憧れて(2)

開かれた知性とは、平易な言葉でいうならば、連想ゲームな世界観です。 あるキーワードがあったときに、あれもこれもそういえば!と、関連するエピソードやイメージが広がり、どんどん多様になっていく。それらは一見羅列のようにみえたとしても、ひとつの物語としての一貫性があり、その視点でみれば、大きなまとまりになっていく、それが類化性能的な世界です。 世の中は、これとまったく反対の、切り分けて分離して、その中のどれかを権威付けする「分化性能」方式が取られており、折口氏はその貧弱な世界観